1.退職だ、やっとモンゴルに行けるぞ!
これで退職だ、ユニホームを脱いでモンゴル旅行に行くぞ!
やっと64歳になって現役を引退してフリーの身となって、2005年8月念願のモンゴル旅行に行くことにした。
ミヤット・モンゴル航空の機内の雰囲気は欧米行きと随分違っているな・・・。 何となく日本人に似た顔つきと肌合いの人が多く、中にモンゴル人の相撲取りの集団やノモハン慰霊団のタスキを掛けた一団もいて日本の国内線のようだ。隣の席の同年配の男性に話しかけると大学の先生でゴビ砂漠に隕石を探しに行くとのことで何と挑戦的な旅だ!
機上でくつろぎながら自分の現役時代を振り返った。・・・大学を卒業し22歳で日油(株)に入社し43年間我ながら良く働いたな。
米国の会社との合弁会社の社長もやったし、最後は合弁を解消し日油の子会社の社長として事業発展に寄与したし、もう思い残すことはない。 こうしてモンゴル旅行の切掛けができたことは、やっぱり日油の先輩の元山さんのお蔭だ・・・。
元山さんは私より4年先輩で2002年6月のOB会で会った時、外務省ボランティア活動でモンゴルの大学で経済学を教えておられた。たまたま帰国された時にお会いし、何か生き生きとした表情で、「モンゴルはとても面白いところだよ。君も一度遊びにきたら如何か」との誘いに直ぐ乗ることにした。
飛行機はチンギスハーン空港に着陸態勢となり、窓から覗くと日本とは相当違う風景が目に入った。 夕方の日差しの中に広々として草原が広がり羊や馬などが群れ白いゲルが点在している。周りは緩やかな山並みが連なっているが、ほとんど木々や森は見当たらない。
ここはまさに大草原の国だ。 チンギスハーン空港は、モンゴルの首都の空港にしては建物や設備も貧弱で、国際線の手荷物受取りレーンも1つしかない。やはりここは貧しい国なのだ・・・。
入国ゲートには、たくさんの人が迎えに集まっており、再会を喜んで歓声を上げたり抱合ったりしている。
私は通訳のSさんに迎えられ、タクシーでホテルに向かった。初めて見るウランバートルの景色は、一面の草原が続き家畜群がって草を食んでいる。
やがて車は工場が立ち並ぶ地域に差し掛かると、高い煙突から黒い煙をもくもくと出している大きい建物があり、火力発電所とのこと。市街地に入ってくると道路が混で来て車はなかなか進まない。街路樹の葉っぱも雨が少ないのかくすんだ緑で、走っている車は埃をかぶり汚れた車が多いが、良く見ると殆ど中古の日本車でこんな所で頑張っているのかと勇気を貰い、またモンゴルは親日的国だと思ってホッとする。
宿泊先のサウザンウイン(SW)・ホテルは少し都心より外れたところにあり、中年のモンゴル女性が日本語で迎えてくれた。ホテルは二階建てのがっしりした建物でロシア人のものを柳沢と云う日本人のオーナーが買い取ったとのこと。
翌朝、一階のレストランに降りて行くとすでに大きなテーブルを囲んで数人が食事を摂っている。ここの宿泊客は殆どが日本人で「おはようございます」と一斉に挨拶した。
みんな仲間のように食事をしながら会話を交わし、新米の私に「モンゴルは初めてですか」と話しかけられた。
「友人がモンゴルにいますので、頼って初めてきました」と挨拶すると、若い女性がモンゴルには夏休みを取って毎年来て乗馬をするのか楽しみで、私にもぜひ乗馬をするように勧めた。そして、彼女は「あー、もう明日は日本に帰国か。また、あの渋谷のビルで働くことになるのか・・・いやだなー・・・」とため息をついた。
その日(8月25日)は、事前に日本で調査しておいたモンゴルの会社を訪問することにした。
通訳のSさんの話だと、モンゴルの会社はアポイントを取っていても、その日の朝に電話入れて確認する必要があるとのこと。
このあたりが狩猟民族の気質で、その日のことはその日の気分や天候次第で行動するので、事前にアポイントを取っていても反故にされるとのこと。運よくエコプラント社と云う薬草を栽培している会社と連絡が取れたので訪問することにした。
その会社は古びたアパートの暗い一室にあり、四人の男が待っていた。その一人が流暢な日本語で「私は、名前をアマルと云い日本の大学を卒業したもので、通訳のために参加しました」と自己紹介した。先ずアマル氏の通訳によりトムロ社長よりエコプラント社(EP社)の概況を聞いた。
それによると、・・・EP社は、ゴビアルタイ県のグーリン村に千五百ヘクタール農場を所有しており、2002年より甘草、マオウやオウギなどの薬草を栽培し、市場は中国を目標にしている。既に山本と云う日本人が、EP社に投資しているが、日本市場への薬草販売については未着手である・・・。
すでに日本人が参画していることに驚き「どうして山本氏は日本市場の開発が出来ていないのか」と聞くと、「モンゴルサイドでは分からない。日本で山本氏に直接会って理由を聞いて欲しい」との回答が返って来た。
EP社の薬草ビジネスは、私がシニアー起業としてやりたかった事業で、丁度昼食時となったので一緒に食事しながら話をすることにした。
EP社は、薬草の栽培を始めて三年になるが、薬草の販売はまだこれからで、私が日本への薬草販売に協力出来るルートがありそうだと感じた。 また、通訳のアマル氏の印象は、十年間日本に留学経験があり日本のことに精通して感じてあるが、話が飛躍するところがあった。
彼は、モンゴルで米や野菜の栽培にも成功しているとの話をしたがが、良く分からない所があり調査してみる必要があると感じた。しかし、私にとってモンゴル・ビジネスの取り掛かりが出来たので、帰国後山本氏に会って確認することにした。・・・余談ながら翌朝の朝食時にSWホテルのオーナーの柳沢さんに会い、昨日モンゴルの会社を数社訪問して投資案件の話などもあった旨告げると、「モンゴル人の話は大きいので半分位に聞いたほうが良いですよ」とのアドバイスを受けた・・・
午後は、馬油の件でモンゴルの大手企業のJUST社を訪問することにした。会社案内によると、この会社は鉱山の採掘や食肉工場等を経営しており、街の中心の大きなビルに入っていた。
しかし、ビルの中に入ってゆくと床や壁がいたる所剥げ落ちおり、歩くときしんだ音がする。モンゴル人はどうもこんな所が些か無頓着なところがある。
面会には男女一人ずつが出てきたが、女性の方はブロンドの白人の美人である。後でSさんに聞くとロシア系の混血ではないかとのことであった。その女性は、英語も堪能で私の訪問目的を的確に聞いて、馬油について必要数量と品質を提案してくれれば、価格見積りを出すとのこと。
私の方は、最初の訪問で先方より具体的な提案をされて些か戸惑ったが、こちらを顧客として見ておらず高圧的な態度が気に障り、やはり共産主義を長く受け入れて来た国であることを思い知った。
友人の元山さんが、ほんとのモンゴルを知るには一度田舎の方を旅行した方が良いとのアドバイスを受けて、モンゴルのかつての首都ハラホルンを訪問することにした。
26日に車を貸しきって運転手と通訳のSさんと3人で2泊3日のツアーに出発した。
ウランバートルのスーパーマーケットで食料品やティッシュなどを買い込んで、車は西の方角を向けて三十分走ると広大な草原が広がり道は天空に繋がるように伸びている。しかし、草原の一本道は舗装しているがあちこちで穴凹が空いている悪路で、車はそれをよけて走るので激しく揺れてとでも快適なドライブとは云えない。
3時間ぐらい車に揺られてやっと昼食を取ることになり、道端に車を止める。ブルーシートを取り出して草むらに敷くと、大きなバッタや虫がバタバタと飛び立った。 途中から道が良くなり車がスムーズに走るので如何してかと聞くと、最近日本のODAで建造した道路とのことで、日本の道路技術の素晴らしさを改めて痛感した。
車に揺られること7時間遠くにチベット寺院の塔が見えてきた。やっと目的地のハラホルンに到着し、その日は観光客用のゲル村に宿泊するとのこと。ゲル村は大きな河川の側にあり、ゲートを入ると大小三十位のゲルが点在している。その中心に一番大きなゲルがありレストランになっていて、そこでチェックインして宿泊するゲルに落ち着いた。
私はゲルに泊まるのは始めてで、周りに小さなベッドが三つ、真中にストーブが置かれていて中は結構広く、一人で寝るのはいささか寂しい。
夕食のために早めにレストランに出かけると、既に数人の観光客が話しこんでいる。隣に座っている白人の夫婦が英語で会話しているので、話しかけるとオーストラリア人で日本からやって来たと云う。
私が東京から来たと云うと話が盛り上がり、彼らは、奈良で英語の教師をしていたが、オーストラリアに帰る途中で、最後の思い出にアジアの中の遠い国・モンゴルを旅行しているとのこと。日本には約二年間いたが、「とっても良い国だ。もっと居たかったが、事情があり帰国しなければならない」と、しきりと日本での生活を懐かしがっていた。
私もモンゴルのこんな僻地での偶然の出会いに楽しい時間を過ごすことが出来た。
食事が終わってゲルに帰ると一人で何もすることはなく、モンゴルのガイドブックを読みながら寝ることにしたが、遠くで犬の遠吠えが聞こえ、なかなか寝付けなかった。
夜中にトイレのために起きてゲルの外に出ると、突然黒い獣が駆け寄ってきた。びっくりして目を凝らして見ると大きな犬である。
このゲルはモンゴル犬を警備のために飼っていて、それが夜中でも走り回っていた。ゲルのお客には危害を及ぼさないと聞いていたので安心したが、狼のような風貌で怖い感じがする。また、夜明け時期は気温が急激に下がり寒さで目が覚め寝付けない。
そんな時にゲルの扉をノックする音がして、開けて見ると中年の女性が入って来てモンゴル語で何か喋っている。手にマッチと新聞紙を握っており、ストーブを指差して火をつける格好をする。彼女はゲル村の従業員で、寒いのでストーブに火をつけに来たことが分かった。ストーブの薪が燃え始めるとゲル内は直ぐに暖かくなり、暫くはうとうと眠り込むことが出来た。
やっと八時頃起き出して、百メータ位離れて洗面所に向かうと、夜中におどされたモンゴル犬が尻尾を振りながら近づいて来た。毛がふさふさした大型犬でやはり犬もモンゴルの風土に適合して進化して来たことが分かる。
朝食を済ませると、車で観光に出かけることにした。最初の目的地は、昨日通って来たチベット寺院のエルデニ・ゾーである。この寺院はハラホルンで唯一残っている歴史的建物で、白い城壁で囲まれている。
八月末のためか観光客はまばらで境内はいたる所雑草が生えており、一部の寺院は修復中のところもあった。寺院では黄色い着物を着た若い僧侶が読経をあげている。
読経の抑揚は日本で聞いているものと何処か似通っていて、同じ仏教の流れを汲むものだと思った。
寺院を参拝した後、レストランで昼食を取ることになった。町の広場に着くと大きな瓶を携えた老婆が、私を見て呼掛けた。馬乳酒を売っていると云うので、物は試しと思って飲んでみることにした。
ひしゃくですくって茶碗に注いでくれたので、飲んだがとても酸っぱくて飲めるようなものではない。一口飲んだだけで茶碗を返した。
レストランと言ってもテーブルが数個置いてありお客も我々だけで、メニューも羊肉とお米を炒めたものしかない。一番困ったのがトイレで、店の前の小さなバラックがあり、そこに深い穴が掘ってあり二本の板が渡してある。転ばない様に用心して何とか用足した。
午後は、ハラホルンの近郊を観光することになり、車は小高い丘に登って行くと眼下にパノラマが広がっている。
頂上は展望台になっており、案内書ではここは十三世紀のアブタイ・サイン ハーン宮殿址で現在発掘中とのことである。そこから見下ろすハラホルンの街は、遠くにオルホン川が流れそこから水路が引かれ畑が広がっている。
恐らく十三世紀には、相当栄えていたことが窺える。駐車場には多くの露店があり土産物を売っており、数人の子供が寄って来て買ってくれとせがむ。記念にと思い小さなチベット仏像を買うことにした。
夕方ゲル村に帰って来て同じゲルで宿泊したが、少しゲルに慣れ来てその夜は疲れもあって良く眠ることで出来た。翌朝レストランで朝食を取っていると、隣の席に中年の女性三人が座っていて、突然日本語で話しかけられた。・・・昨夜ウランバートルからタクシーで観光にやって来たが、明日エルデニ・ゾーに観光に行きたいが車が無いのでどうしよう・・・との話しである。私の方はウランバートルに帰るだけで、車に余裕があり途中のエルデニ・ゾーまで乗せてやることにした。
三人は、神戸からウランバートルにやって来てキリスト教の布教をしており、時間あるのでハラホルンの観光にやってきたとのこと。「道路がでこぼこで車が揺れて大変でしたでしょう」と聞くと、「でも、ドライバーがうまく避けながら運転するので、かえって楽しかったですよ」と答え、神に使える女性の感性は違うのだと思う。
モンゴルでのキリスト教の布教状況を聞くと、まだ初期の段階なのでかえってやりがいがあるとの話で、やはり女性の感性は違うなと思った。
その日の夕方ウランバートルに帰ってきて、元山氏が勤務するフラワーホテルに直行した。元山氏は私のためにホテルでの入浴を勧めてくれて、大浴場の入場券を出してくれた。
二日ぶりに湯船に首まで浸りながら、・・・やっぱり自分は日本人だ。入浴が旅の疲れを取るには一番だ・・・と顔を撫でた。
その後、モンゴルでの外国人投資に関する当局(FIFTA)やウオッカの製造会社等を訪問して、モンゴルでの二週間の滞在を終えて9月3日に無事に帰国した。
2.モンゴルの薬草事業に投資してみよう!
第一回目のモンゴル旅行で、エコプラント社(EP社)の薬草ビジネスに一番関心があり、日本人で既に投資している山本氏に会うことにした。携帯電話に掛けてみると大きな声が返って来て、モンゴルでの件を話し一度会いたいと申し入れると、あっさり日時と場所が決まった。人生、何事も当って砕けよだ!
山本氏には恵比寿駅ビルの喫茶店で会ったが、四十代の後半位で活動的でやり手のビジネスマンであるとの印象を持った。 一時間程話したが、モンゴルに対して情熱を持ってビジネスに挑戦していることが感じられた。 彼の話を要約すると、・・・自分は、建設関係の技術屋でモンゴルに製図作成(CADシステム)の会社を設立して、軌道に乗りつつある。
その仕事通じアマル氏と知り合い、エコプラント社(EP社)に投資することになった。 しかし、薬草ビジネスは全く素人なので日本でのワークはしていない。
もし、谷崎さんが日本市場の薬草開発に参入したいならば、一緒に協力したい・・・。
山本氏から前向きな話を聞いてほっとしたが、間もなく彼がモンゴルを訪問するのでEP社の意向を聞いて、帰国後さらに具体的に話し合うことにした。
その年(2005)も押し詰まった時期に、再度山本氏に会ってモンゴル訪問の状況を聞いた・・・。 谷﨑がエコプラント社に何某かの出資をすれば、日本での薬草の販売権を与えるとのことであった。 ある程度こちらの要求を通すには出資する必要があると考えていたので、取り敢えず1万㌦を出資することにしたが、契約を締結するには前に入金することを要求して来たので、これまで経験した欧米の会社の場合は契約後に入金するのが規則なので些か不安を感じた。
しかしモンゴルはこれまで共産圏だったので商習慣の違いがあるのだと理解し、先行して1万ドルを送金することにした。
年が明けて2006年2月厳寒の中、2回目のモンゴル旅行に出発することにした。 無事出資した1万㌦がEP社に入金され、株主として登録の手続きをするとのことになり、大韓航空を使用しソウル経由でウランバートル入りした。 EP社のメンバーは、私が株主で取締役になることを歓迎してくれて、2006年2月7日に正式に調印を行なった。
その調印式で、モンゴル薬草の日本での販売権を私に与えることをEP社に承認させた。
翌日、EP社がパーティーを開いてくれるとのことで、ウランバートルの郊外の別荘地に案内された。 車で三十分程走ると一面の雪景色が広がっていて、ゲルが点在している。 暫く行くと小高い丘になり朝日を受けて輝いている中に家畜が雪を掻き分け枯れ草を食んでいる。 驚いたことにその中に寝袋に入って顔だけ出している牧童がいた。 彼はこの雪原で一日中寝転んで家畜を監視して過ごすとのことで信じられない情景である。 私なんぞとても厳寒の中で何にもしないで寝そべっている仕事は耐えられないと思った・・・。 そこでモンゴルでの冬の遊牧について聞くと、雪に覆われた草原で枯れ草でも家畜が食む場所を見つけるのは牧童に取って大変な仕事で、大寒波に見舞われるとゾド(モンゴル語で寒雪害)で多くの家畜が凍死してモンゴルにとっても大きな損害となるとのこと。
因みに食肉会社のトップから後で聞いた遊牧の話を紹介すると・・・、夏は広大な草原に草を求めて遠方まで遊牧に出るが、秋になると太った家畜を食肉会社に引取ってもらうため屠場の近くまで連れて来る。 牛や羊や馬などの哺乳類は移動するに伴い必ず群の中にリーダーが現れので、それを牧童と牧畜犬が把握してコントロールすれば群れを容易に移動させることが出来る。 しかし馬の場合は敏感で、屠場に近づくと匂いや雰囲気で己の末路を悟り涙を流し近づかなくなり、リーダーの馬も屠場から逃げる様な行動を取る。 そこで、その馬の手綱とり屠場に引っ張って入り、何の危害も加えことなくスルーさせ元の群れに戻して安心させ、再度リーダー馬を屠場に引入れると後続の馬は付いてきて屠場現場に送られ食肉となる。 リーダー馬は何回か囮行為に使われた後、最後は処分される運命となる・・・との切ない話を聞き私もつい涙した。
ウランバートルの郊外に出て市街の方向を見ると、真っ青な空に円盤のようなスモッグが浮いている。 モンゴルの冬の暖房はもっぱら石炭に頼っていて、その粉塵が大量に放出されて、大気汚染を引き起こしているとのこと。 また、発電も石炭を燃料とする火力発電が主体で、ここでも粉塵防止対策が不十分で大気汚染の原因となっていて、モンゴルでの環境問題の深刻さを痛感した。
目的地のホテルは、夏期の避暑地に良く利用されるとのことで、冬のこの時期は閑散としていた。 ホテル周辺を少し歩いたが、昼中日差しがあっても気温はマイナス20℃位で耳朶がぴりぴりして三十分もいたら震えが来たので、部屋の中に駆け込んだ。 パーティーは、日本人は私と山本氏の二人で、モンゴル人はトムロ社長、バヤーフ副社長、バットフ―部長と通訳のボヤンバット氏の4人が参加し、エコプラント社の前途を祝った。
モンゴル訪問の目的を済ませて、帰りもソウル経由で帰国したが、山本氏がソウルで前の会社に立ち寄るとのことで、私もソウルで二泊して観光旅行することにした。 私は、韓国旅行は始めてで山本氏に案内されてソウルの市内を地下鉄で回ったが、東京と同じ街並みとの印象を受けた。 午後からタクシーで観光地を見て回った。 中年の韓国女性がガイドしてくれたが、流暢な日本語を話すインテリで韓国と日本の文化の違いなどについて会話をかわした。 その中で、彼女の息子が上海の大学に留学しているとのことで、韓国では優秀な若者は米国か中国に留学するそうで、何となく隣人の中国の影響を感じた。
2006年6月に古巣のニチユソリューション(株)の相談役を65歳で正式に退職して、直ぐに薬草の販売会社を設立することにした。
私が主体的に出資して山本氏と二人で、資本金350万円の新会社「エコプラントジャパン(株)・以下EPJ社」を、2006年7月18日付けで設立して、日本でのモンゴル薬草の市場開発に注力することにした。