谷﨑義治の回想録(モンゴル紀行)

       
回想録①
回想録②
回想録③
回想録④
回想録⑤
回想録⑥
回想録⑦
 
 

1.退職だ、やっとモンゴルに行けるぞ!

 これで退職だ、ユニホームを脱いでモンゴル旅行に行くぞ!
やっと64歳になって現役を引退してフリーの身となって、2005年8月念願のモンゴル旅行に行くことにした。
ミヤット・モンゴル航空の機内の雰囲気は欧米行きと随分違っているな・・・。 何となく日本人に似た顔つきと肌合いの人が多く、中にモンゴル人の相撲取りの集団やノモハン慰霊団のタスキを掛けた一団もいて日本の国内線のようだ。隣の席の同年配の男性に話しかけると大学の先生でゴビ砂漠に隕石を探しに行くとのことで何と挑戦的な旅だ!

       

機上でくつろぎながら自分の現役時代を振り返った。・・・大学を卒業し22歳で日油(株)に入社し43年間我ながら良く働いたな。
米国の会社との合弁会社の社長もやったし、最後は合弁を解消し日油の子会社の社長として事業発展に寄与したし、もう思い残すことはない。 こうしてモンゴル旅行の切掛けができたことは、やっぱり日油の先輩の元山さんのお蔭だ・・・。
元山さんは私より4年先輩で2002年6月のOB会で会った時、外務省ボランティア活動でモンゴルの大学で経済学を教えておられた。たまたま帰国された時にお会いし、何か生き生きとした表情で、「モンゴルはとても面白いところだよ。君も一度遊びにきたら如何か」との誘いに直ぐ乗ることにした。

       

飛行機はチンギスハーン空港に着陸態勢となり、窓から覗くと日本とは相当違う風景が目に入った。 夕方の日差しの中に広々として草原が広がり羊や馬などが群れ白いゲルが点在している。周りは緩やかな山並みが連なっているが、ほとんど木々や森は見当たらない。
ここはまさに大草原の国だ。 チンギスハーン空港は、モンゴルの首都の空港にしては建物や設備も貧弱で、国際線の手荷物受取りレーンも1つしかない。やはりここは貧しい国なのだ・・・。
入国ゲートには、たくさんの人が迎えに集まっており、再会を喜んで歓声を上げたり抱合ったりしている。

モンゴルの空港

 

私は通訳のSさんに迎えられ、タクシーでホテルに向かった。初めて見るウランバートルの景色は、一面の草原が続き家畜群がって草を食んでいる。
やがて車は工場が立ち並ぶ地域に差し掛かると、高い煙突から黒い煙をもくもくと出している大きい建物があり、火力発電所とのこと。市街地に入ってくると道路が混で来て車はなかなか進まない。街路樹の葉っぱも雨が少ないのかくすんだ緑で、走っている車は埃をかぶり汚れた車が多いが、良く見ると殆ど中古の日本車でこんな所で頑張っているのかと勇気を貰い、またモンゴルは親日的国だと思ってホッとする。
宿泊先のサウザンウイン(SW)・ホテルは少し都心より外れたところにあり、中年のモンゴル女性が日本語で迎えてくれた。ホテルは二階建てのがっしりした建物でロシア人のものを柳沢と云う日本人のオーナーが買い取ったとのこと。

 翌朝、一階のレストランに降りて行くとすでに大きなテーブルを囲んで数人が食事を摂っている。ここの宿泊客は殆どが日本人で「おはようございます」と一斉に挨拶した。
みんな仲間のように食事をしながら会話を交わし、新米の私に「モンゴルは初めてですか」と話しかけられた。
「友人がモンゴルにいますので、頼って初めてきました」と挨拶すると、若い女性がモンゴルには夏休みを取って毎年来て乗馬をするのか楽しみで、私にもぜひ乗馬をするように勧めた。そして、彼女は「あー、もう明日は日本に帰国か。また、あの渋谷のビルで働くことになるのか・・・いやだなー・・・」とため息をついた。

 その日(8月25日)は、事前に日本で調査しておいたモンゴルの会社を訪問することにした。
通訳のSさんの話だと、モンゴルの会社はアポイントを取っていても、その日の朝に電話入れて確認する必要があるとのこと。
このあたりが狩猟民族の気質で、その日のことはその日の気分や天候次第で行動するので、事前にアポイントを取っていても反故にされるとのこと。運よくエコプラント社と云う薬草を栽培している会社と連絡が取れたので訪問することにした。
その会社は古びたアパートの暗い一室にあり、四人の男が待っていた。その一人が流暢な日本語で「私は、名前をアマルと云い日本の大学を卒業したもので、通訳のために参加しました」と自己紹介した。先ずアマル氏の通訳によりトムロ社長よりエコプラント社(EP社)の概況を聞いた。

それによると、・・・EP社は、ゴビアルタイ県のグーリン村に千五百ヘクタール農場を所有しており、2002年より甘草、マオウやオウギなどの薬草を栽培し、市場は中国を目標にしている。既に山本と云う日本人が、EP社に投資しているが、日本市場への薬草販売については未着手である・・・。
すでに日本人が参画していることに驚き「どうして山本氏は日本市場の開発が出来ていないのか」と聞くと、「モンゴルサイドでは分からない。日本で山本氏に直接会って理由を聞いて欲しい」との回答が返って来た。

EP社の薬草ビジネスは、私がシニアー起業としてやりたかった事業で、丁度昼食時となったので一緒に食事しながら話をすることにした。
EP社は、薬草の栽培を始めて三年になるが、薬草の販売はまだこれからで、私が日本への薬草販売に協力出来るルートがありそうだと感じた。 また、通訳のアマル氏の印象は、十年間日本に留学経験があり日本のことに精通して感じてあるが、話が飛躍するところがあった。

彼は、モンゴルで米や野菜の栽培にも成功しているとの話をしたがが、良く分からない所があり調査してみる必要があると感じた。しかし、私にとってモンゴル・ビジネスの取り掛かりが出来たので、帰国後山本氏に会って確認することにした。・・・余談ながら翌朝の朝食時にSWホテルのオーナーの柳沢さんに会い、昨日モンゴルの会社を数社訪問して投資案件の話などもあった旨告げると、「モンゴル人の話は大きいので半分位に聞いたほうが良いですよ」とのアドバイスを受けた・・・

 午後は、馬油の件でモンゴルの大手企業のJUST社を訪問することにした。会社案内によると、この会社は鉱山の採掘や食肉工場等を経営しており、街の中心の大きなビルに入っていた。
しかし、ビルの中に入ってゆくと床や壁がいたる所剥げ落ちおり、歩くときしんだ音がする。モンゴル人はどうもこんな所が些か無頓着なところがある。
面会には男女一人ずつが出てきたが、女性の方はブロンドの白人の美人である。後でSさんに聞くとロシア系の混血ではないかとのことであった。その女性は、英語も堪能で私の訪問目的を的確に聞いて、馬油について必要数量と品質を提案してくれれば、価格見積りを出すとのこと。
私の方は、最初の訪問で先方より具体的な提案をされて些か戸惑ったが、こちらを顧客として見ておらず高圧的な態度が気に障り、やはり共産主義を長く受け入れて来た国であることを思い知った。

 友人の元山さんが、ほんとのモンゴルを知るには一度田舎の方を旅行した方が良いとのアドバイスを受けて、モンゴルのかつての首都ハラホルンを訪問することにした。
26日に車を貸しきって運転手と通訳のSさんと3人で2泊3日のツアーに出発した。 ウランバートルのスーパーマーケットで食料品やティッシュなどを買い込んで、車は西の方角を向けて三十分走ると広大な草原が広がり道は天空に繋がるように伸びている。しかし、草原の一本道は舗装しているがあちこちで穴凹が空いている悪路で、車はそれをよけて走るので激しく揺れてとでも快適なドライブとは云えない。
3時間ぐらい車に揺られてやっと昼食を取ることになり、道端に車を止める。ブルーシートを取り出して草むらに敷くと、大きなバッタや虫がバタバタと飛び立った。 途中から道が良くなり車がスムーズに走るので如何してかと聞くと、最近日本のODAで建造した道路とのことで、日本の道路技術の素晴らしさを改めて痛感した。

モンゴルの観光用ゲル

 

車に揺られること7時間遠くにチベット寺院の塔が見えてきた。やっと目的地のハラホルンに到着し、その日は観光客用のゲル村に宿泊するとのこと。ゲル村は大きな河川の側にあり、ゲートを入ると大小三十位のゲルが点在している。その中心に一番大きなゲルがありレストランになっていて、そこでチェックインして宿泊するゲルに落ち着いた。
私はゲルに泊まるのは始めてで、周りに小さなベッドが三つ、真中にストーブが置かれていて中は結構広く、一人で寝るのはいささか寂しい。
夕食のために早めにレストランに出かけると、既に数人の観光客が話しこんでいる。隣に座っている白人の夫婦が英語で会話しているので、話しかけるとオーストラリア人で日本からやって来たと云う。

私が東京から来たと云うと話が盛り上がり、彼らは、奈良で英語の教師をしていたが、オーストラリアに帰る途中で、最後の思い出にアジアの中の遠い国・モンゴルを旅行しているとのこと。日本には約二年間いたが、「とっても良い国だ。もっと居たかったが、事情があり帰国しなければならない」と、しきりと日本での生活を懐かしがっていた。
私もモンゴルのこんな僻地での偶然の出会いに楽しい時間を過ごすことが出来た。

 食事が終わってゲルに帰ると一人で何もすることはなく、モンゴルのガイドブックを読みながら寝ることにしたが、遠くで犬の遠吠えが聞こえ、なかなか寝付けなかった。
夜中にトイレのために起きてゲルの外に出ると、突然黒い獣が駆け寄ってきた。びっくりして目を凝らして見ると大きな犬である。
このゲルはモンゴル犬を警備のために飼っていて、それが夜中でも走り回っていた。ゲルのお客には危害を及ぼさないと聞いていたので安心したが、狼のような風貌で怖い感じがする。また、夜明け時期は気温が急激に下がり寒さで目が覚め寝付けない。

そんな時にゲルの扉をノックする音がして、開けて見ると中年の女性が入って来てモンゴル語で何か喋っている。手にマッチと新聞紙を握っており、ストーブを指差して火をつける格好をする。彼女はゲル村の従業員で、寒いのでストーブに火をつけに来たことが分かった。ストーブの薪が燃え始めるとゲル内は直ぐに暖かくなり、暫くはうとうと眠り込むことが出来た。

やっと八時頃起き出して、百メータ位離れて洗面所に向かうと、夜中におどされたモンゴル犬が尻尾を振りながら近づいて来た。毛がふさふさした大型犬でやはり犬もモンゴルの風土に適合して進化して来たことが分かる。

モンゴルのエルデニ・ゾー

       

 朝食を済ませると、車で観光に出かけることにした。最初の目的地は、昨日通って来たチベット寺院のエルデニ・ゾーである。この寺院はハラホルンで唯一残っている歴史的建物で、白い城壁で囲まれている。
八月末のためか観光客はまばらで境内はいたる所雑草が生えており、一部の寺院は修復中のところもあった。寺院では黄色い着物を着た若い僧侶が読経をあげている。
読経の抑揚は日本で聞いているものと何処か似通っていて、同じ仏教の流れを汲むものだと思った。

       

 寺院を参拝した後、レストランで昼食を取ることになった。町の広場に着くと大きな瓶を携えた老婆が、私を見て呼掛けた。馬乳酒を売っていると云うので、物は試しと思って飲んでみることにした。
ひしゃくですくって茶碗に注いでくれたので、飲んだがとても酸っぱくて飲めるようなものではない。一口飲んだだけで茶碗を返した。
レストランと言ってもテーブルが数個置いてありお客も我々だけで、メニューも羊肉とお米を炒めたものしかない。一番困ったのがトイレで、店の前の小さなバラックがあり、そこに深い穴が掘ってあり二本の板が渡してある。転ばない様に用心して何とか用足した。

 午後は、ハラホルンの近郊を観光することになり、車は小高い丘に登って行くと眼下にパノラマが広がっている。
頂上は展望台になっており、案内書ではここは十三世紀のアブタイ・サイン ハーン宮殿址で現在発掘中とのことである。そこから見下ろすハラホルンの街は、遠くにオルホン川が流れそこから水路が引かれ畑が広がっている。
恐らく十三世紀には、相当栄えていたことが窺える。駐車場には多くの露店があり土産物を売っており、数人の子供が寄って来て買ってくれとせがむ。記念にと思い小さなチベット仏像を買うことにした。

夕方ゲル村に帰って来て同じゲルで宿泊したが、少しゲルに慣れ来てその夜は疲れもあって良く眠ることで出来た。翌朝レストランで朝食を取っていると、隣の席に中年の女性三人が座っていて、突然日本語で話しかけられた。・・・昨夜ウランバートルからタクシーで観光にやって来たが、明日エルデニ・ゾーに観光に行きたいが車が無いのでどうしよう・・・との話しである。私の方はウランバートルに帰るだけで、車に余裕があり途中のエルデニ・ゾーまで乗せてやることにした。

三人は、神戸からウランバートルにやって来てキリスト教の布教をしており、時間あるのでハラホルンの観光にやってきたとのこと。「道路がでこぼこで車が揺れて大変でしたでしょう」と聞くと、「でも、ドライバーがうまく避けながら運転するので、かえって楽しかったですよ」と答え、神に使える女性の感性は違うのだと思う。
モンゴルでのキリスト教の布教状況を聞くと、まだ初期の段階なのでかえってやりがいがあるとの話で、やはり女性の感性は違うなと思った。

その日の夕方ウランバートルに帰ってきて、元山氏が勤務するフラワーホテルに直行した。元山氏は私のためにホテルでの入浴を勧めてくれて、大浴場の入場券を出してくれた。
二日ぶりに湯船に首まで浸りながら、・・・やっぱり自分は日本人だ。入浴が旅の疲れを取るには一番だ・・・と顔を撫でた。
その後、モンゴルでの外国人投資に関する当局(FIFTA)やウオッカの製造会社等を訪問して、モンゴルでの二週間の滞在を終えて9月3日に無事に帰国した。

 
       

 

回想録②

       

 

2.モンゴルの薬草事業に投資してみよう!

 第一回目のモンゴル旅行で、エコプラント社(EP社)の薬草ビジネスに一番関心があり、日本人で既に投資している山本氏に会うことにした。携帯電話に掛けてみると大きな声が返って来て、モンゴルでの件を話し一度会いたいと申し入れると、あっさり日時と場所が決まった。人生、何事も当って砕けよだ!
 山本氏には恵比寿駅ビルの喫茶店で会ったが、四十代の後半位で活動的でやり手のビジネスマンであるとの印象を持った。 一時間程話したが、モンゴルに対して情熱を持ってビジネスに挑戦していることが感じられた。 彼の話を要約すると、・・・自分は、建設関係の技術屋でモンゴルに製図作成(CADシステム)の会社を設立して、軌道に乗りつつある。
その仕事通じアマル氏と知り合い、エコプラント社(EP社)に投資することになった。 しかし、薬草ビジネスは全く素人なので日本でのワークはしていない。
もし、谷崎さんが日本市場の薬草開発に参入したいならば、一緒に協力したい・・・。
山本氏から前向きな話を聞いてほっとしたが、間もなく彼がモンゴルを訪問するのでEP社の意向を聞いて、帰国後さらに具体的に話し合うことにした。

 その年(2005)も押し詰まった時期に、再度山本氏に会ってモンゴル訪問の状況を聞いた・・・。 谷﨑がエコプラント社に何某かの出資をすれば、日本での薬草の販売権を与えるとのことであった。 ある程度こちらの要求を通すには出資する必要があると考えていたので、取り敢えず1万㌦を出資することにしたが、契約を締結するには前に入金することを要求して来たので、これまで経験した欧米の会社の場合は契約後に入金するのが規則なので些か不安を感じた。 
しかしモンゴルはこれまで共産圏だったので商習慣の違いがあるのだと理解し、先行して1万ドルを送金することにした。

 年が明けて2006年2月厳寒の中、2回目のモンゴル旅行に出発することにした。 無事出資した1万㌦がEP社に入金され、株主として登録の手続きをするとのことになり、大韓航空を使用しソウル経由でウランバートル入りした。 EP社のメンバーは、私が株主で取締役になることを歓迎してくれて、2006年2月7日に正式に調印を行なった。
その調印式で、モンゴル薬草の日本での販売権を私に与えることをEP社に承認させた。

エコプラント社との調印式

 翌日、EP社がパーティーを開いてくれるとのことで、ウランバートルの郊外の別荘地に案内された。 車で三十分程走ると一面の雪景色が広がっていて、ゲルが点在している。 暫く行くと小高い丘になり朝日を受けて輝いている中に家畜が雪を掻き分け枯れ草を食んでいる。 驚いたことにその中に寝袋に入って顔だけ出している牧童がいた。 彼はこの雪原で一日中寝転んで家畜を監視して過ごすとのことで信じられない情景である。 私なんぞとても厳寒の中で何にもしないで寝そべっている仕事は耐えられないと思った・・・。 そこでモンゴルでの冬の遊牧について聞くと、雪に覆われた草原で枯れ草でも家畜が食む場所を見つけるのは牧童に取って大変な仕事で、大寒波に見舞われるとゾド(モンゴル語で寒雪害)で多くの家畜が凍死してモンゴルにとっても大きな損害となるとのこと。

 因みに食肉会社のトップから後で聞いた遊牧の話を紹介すると・・・、夏は広大な草原に草を求めて遠方まで遊牧に出るが、秋になると太った家畜を食肉会社に引取ってもらうため屠場の近くまで連れて来る。 牛や羊や馬などの哺乳類は移動するに伴い必ず群の中にリーダーが現れので、それを牧童と牧畜犬が把握してコントロールすれば群れを容易に移動させることが出来る。 しかし馬の場合は敏感で、屠場に近づくと匂いや雰囲気で己の末路を悟り涙を流し近づかなくなり、リーダーの馬も屠場から逃げる様な行動を取る。 そこで、その馬の手綱とり屠場に引っ張って入り、何の危害も加えことなくスルーさせ元の群れに戻して安心させ、再度リーダー馬を屠場に引入れると後続の馬は付いてきて屠場現場に送られ食肉となる。 リーダー馬は何回か囮行為に使われた後、最後は処分される運命となる・・・との切ない話を聞き私もつい涙した。

 ウランバートルの郊外に出て市街の方向を見ると、真っ青な空に円盤のようなスモッグが浮いている。 モンゴルの冬の暖房はもっぱら石炭に頼っていて、その粉塵が大量に放出されて、大気汚染を引き起こしているとのこと。 また、発電も石炭を燃料とする火力発電が主体で、ここでも粉塵防止対策が不十分で大気汚染の原因となっていて、モンゴルでの環境問題の深刻さを痛感した。

ウランバートル市内の冬景色

       

 目的地のホテルは、夏期の避暑地に良く利用されるとのことで、冬のこの時期は閑散としていた。 ホテル周辺を少し歩いたが、昼中日差しがあっても気温はマイナス20℃位で耳朶がぴりぴりして三十分もいたら震えが来たので、部屋の中に駆け込んだ。 パーティーは、日本人は私と山本氏の二人で、モンゴル人はトムロ社長、バヤーフ副社長、バットフ―部長と通訳のボヤンバット氏の4人が参加し、エコプラント社の前途を祝った。
 モンゴル訪問の目的を済ませて、帰りもソウル経由で帰国したが、山本氏がソウルで前の会社に立ち寄るとのことで、私もソウルで二泊して観光旅行することにした。 私は、韓国旅行は始めてで山本氏に案内されてソウルの市内を地下鉄で回ったが、東京と同じ街並みとの印象を受けた。  午後からタクシーで観光地を見て回った。 中年の韓国女性がガイドしてくれたが、流暢な日本語を話すインテリで韓国と日本の文化の違いなどについて会話をかわした。 その中で、彼女の息子が上海の大学に留学しているとのことで、韓国では優秀な若者は米国か中国に留学するそうで、何となく隣人の中国の影響を感じた。

       

 2006年6月に古巣のニチユソリューション(株)の相談役を65歳で正式に退職して、直ぐに薬草の販売会社を設立することにした。
私が主体的に出資して山本氏と二人で、資本金350万円の新会社「エコプラントジャパン(株)・以下EPJ社」を、2006年7月18日付けで設立して、日本でのモンゴル薬草の市場開発に注力することにした。

       

 

 

回想録③

       

 

3.アルタイの薬草農場を視察しよう!

3-1. 先ずアルタイ市に行く

 日本での販売会社が出来たので、エコプラント社(EP社)と正式に代理店契約を締結するために、2006年8月28日3度目のモンゴルを訪問した。 事前に代理店契約の内容については、Eメールで交信し合意に達していたので、英文の契約書の調印式をすることになった。 さらに、今回の訪問ではゴビアルタイ県のグーリン農場を視察することが最大の目的である。 EP社の副社長のバヤーフさんが案内するとのこと。 彼は建築の技術者でロシアの大学に留学経験がありロシア語堪能であるが、英語も独自でマスターしていて「英語の方がロシア語に比べ遥かにやさしい」と言っている。 私とは英語でコミュニケーションをしているが、一般的にモンゴル人の語学力は素晴らしく日本人と頭脳の構造が違うのではないかと思った。

 ウランバートルからグーリン農場まで車で行くとなると片道二日かかるとのことで、アルタイまで飛行機で行ってそこから車で行くことになった。 9月5日に、乗客二十人程度の小さなプロペラ機でウランバートルを飛び立ち、先ず中継点のアルバイヘルに向かった。 飛行機が離陸して三十分もすると眼下に広がる景色は一転し草原は消えて赤茶けた不毛の大地が続く。 一時間位飛行すると小さな街の景色が目に入って来た。 近づくと川が糸のように流れ、その周辺には緑地が広がっている。 間もなく飛行機は高度を下げながら草原の中の滑走路に滑るように着陸した。 アルバイヘル空港に着くと殆どの乗客は降りて、男性の方は空港のフェンスの方に走って行き、女性の方は反対の方向にある掘っ立て小屋に向かって走って行く。
バヤーフさんに聞くとみんな用足しのためで、私達も男性軍に従った。驚いたことは、飛行機に給油している直ぐ側でタバコをふかしている乗客がいたことで、しかも給油が過剰になり漏れ始めて全く気に留めない。 空港のスタッフもその乗客に注意することなく、駐機場に漏れたガソリンに砂を掛けていた。 やっぱりここは乗客の安全意識が徹底していないのだと思いながらで不安を感じた。私の不安をよそに、給油が終わると乗客に搭乗するように指示があり、飛行機はアルタイに向かって離陸し、眼下には草原が消えて再び茶色の台地が広がっている。
 暫くすると砂埃が舞上がっている箇所を見つけ、バヤーフさんに聞くと鉱山の採掘現場で、最近モンゴルは鉱業が盛んになり、それにつれて粉塵公害が問題になって来ているとのこと。一時間位飛行すると草原が見えて来て、バヤーフさんが「あれがグーリン農場だ」と窓の外を指差した。 遠くに草原と違った区画された緑の一画が見え、飛行機からも見える程なのでよほど広い農場だろうと感心した。

 アルタイ空港の周りには草木は見当たらず、砂漠の中にある感じで西方に伸びているアルタイ山脈も、赤茶けた岩山が続いている。 乗客は砂埃が舞っている中を空港の角にある小さな建物に向かってゾロゾロと歩いて行く。 フェンスの外側には、大勢の人が手を振って待っている。 乗客は、空港の建物に入ることなくフェンスの外に出て、荷物を載せたトラックを待つことになり、極めてシンプルな方式である。
一度雨や雪が降ったら、屋外の荷物の受け渡しに支障が出るのではないかと心配したが、それだけ降水量が少ない証である。
 我々を迎えてくれたのは、トムロ社長の大学時代の教え子で、ゴビアルタイで保険の仕事をしているモンゴル人で、ロシア製のジープでやって来ていた。 荷物を積み込むとグーリンでの食料を調達するために、街の小さな店で買出しをして、バヤーフさんがアルタイ県庁に挨拶に行くと言うので一緒について行った。

 県庁は、街で一番大きな建物であったがそれでも私の街の綾瀬市役所よりはるかに小さいビルである。 バヤーフさんがそこの職員と話していると、一人が「今からグーリンに行くなら俺も一緒に行くよ」と、我々の車に乗り込んで来た。 どうもモンゴル人の特質は、その日の行動を即決して変更することで、農耕民族の日本人と異なり、やはり狩猟民族であることを思い知った。 彼は、車の中でも饒舌でモンゴル語でしゃべりまくり笑わせていて、バヤーフさんが英語で時々通訳してくれたが、中々面白い男である。
 ロシア製のジープは、車体が高く草原の道を走るのに適しているが、乗り心地は悪く一時間も走ると腰が痛くなってくる。暫く走ると丘の上に小石を積み中心の棒に青い布を巻きつけた塚(モンゴル語でオボー)があり、それは日本での道祖神に当たり、そこで休憩を取って、小石を積んでオボーの周りを三回まわり旅の安全を祈った。

       

3-2. あれがグーリン村のゲートだ

       

 さらに一時間程走ると、遠方に蜃気楼のように緑の木々が見えてきた。 やっと目的地のグーリン村である。 近づくに従って、周りの草原の緑も濃くなり家畜の群れも見られる。 グーリン村のゲートをくぐると、板塀で囲まれた家並みが続き通りでは子供達が遊び大きなモンゴル犬がブラブラ歩いている。 先ず、EP社の現地駐在の植物学者・ツメンデンベレルさんの家を訪問して、彼の案内で早速薬草畑を視察することにした。 村には灌漑用水が引かれ農場の方に続いており、それを辿るとポプラ並木につながっている。 そこが農場の入り口で、千五百ヘクタールの薬草畑が広がっている。

 私にとって農村は日本の故郷の田んぼや畑が繋がる原風景で、地平線が見える程の広大な農場を見たのは初めての経験である。 村の方向を振り返ると、遠くにハンガイ山脈が連なり放牧している駱駝群が悠然と歩いている。 栽培している薬草は、甘草、麻黄とオウギの三品種で、畑を見て回ると麻黄の畑が一番広く生育も良い状態であった。 しかし、甘草畑は狭くて生育状態も悪く、「随分トムロ社長から聞いていたことと違うな」と思った。
私の反応を見て、バヤーフさんが「甘草の栽培は失敗だ。畑が栽培に合っていない」と、ため息混じりに呟いた。 私は、甘草の栽培は極めて難しく世界的にも成功した例がないと聞いていたのでモンゴルでも上手く行っていないネガテイブ情報を知り、今回投資家として直接グーリン農場を訪問したことに意味を感じた。

       

薬草農場を歩くラクダの群れ

       

 農場を一通り回った後、三十キロメーター程離れた灌漑用水の取り入れ口を見に行くことになった。 グーリン村を通り過ぎ、灌漑用水に沿って草原の悪路を三十分程車で走ると大きな川が見えて来た。 バヤーフさんから、ハンガイ山脈から流れ出て西方のハル湖に注ぐザブハン川で、夏季でも雪解けで水は豊富との説明を受ける。 川が少し蛇行している所に灌漑用水の取り入れ口があり、モンゴルにしては立派な設備で、ソビエト連邦時代にソフホーズ農場の建設ために、ロシア政府の援助で出来たとのことであった。 そこから三十キロの水路を作りグーリン農場まで用水を導き入れ牧草を栽培していたとのことで、よくもこんな僻地に大掛かりな設備を造ったものだと感心した。

 夕方、グーリン村に帰ってくると村長が夕食に招待してくれるというので、出かけることにした。お宅を訪問すると村長のチンゾリグさんは、裸同然の恰好で酒を飲んでおり、挨拶をすると奥様が茶碗に並々とウオッカを注いで勧められた。少し口をつけたが、とても強い酒で舌がヒリヒリして飲める代物ではない。 「私は、酒が弱いのでこんな強い酒を飲んだら、ひっくり返ってしまい日本に帰れなくなります」と許しを請うた。私と一緒に来た県庁の役人と運転手は酒が好きなのか、早速チンゾリン村長と酒盛りを始めた。 バイフーさんの話では、この連中は一晩中酒盛りをするとのことで、早めに村長の家を退散した。

       

ロシア製の灌漑用トラクター

       

 グーリン村の唯一の宿泊所であるゲストハウスは、3部屋あり一番広い部屋を私が使用することになり、広いダブルベッドに寝ることになった。 しかし、その夜は停電とのことで部屋は真っ暗で、何もすることはない。 蝋燭で明を灯しバヤーフさんと話をして過ごしたが、つい私が子供の頃の終戦時の停電生活を思い出した。 ゲストハウスでの宿泊で問題なのはトイレが外にあることで、夜中に目が覚めて手さぐりドアーまで行って強く押すが、なかなか開かない。
 渾身の力を込めて再度挑戦して、やっと重いドアーをこじ開けて外へ出た。 冷たい風が頬をさし闇の中でちらちらと雪が舞っている。・・・まだ9月の初旬で日本は残暑が続いていると言うのに、もうモンゴルの僻地では雪が降っているのか・・・と、自然の厳しさを知った。雪明りを頼りにトイレに入ると中は真っ暗で、板が二枚渡してある。 板を踏み外さないように屈みながら用を足し、やっとの思いで部屋に帰る。 ・・・俺は、こんな所で生活はできないなー・・・と、布団の温もりを感じながらまた眠りについた。

       

 翌日は、午前中にエコプラントの農場で薬草のサンプリングを行い、昼食後にグーリン村を離れることにした。 現地駐在のツムンデンベレルさんが「もう帰るのか、もっとゆっくりしたら良いのに」と話しかけたて来たが、バヤーフさんが私のグーリン村での厳しい滞在条件を考慮してくれて、一日早めにアルタイに引き上げることにした。
帰路はバヤーフさんが運転して、草原をバンバン飛ばして走り往路より車が早く進む感じである。 一時間程走ると同じタイプのロシア製のジープが止まっており、何か助けを呼んでいる。話の内容からエンジンが故障したので、手動のスターター棒を貸してくれとのことで、ハンドル付の長い鉄の棒を取り出して、故障している車のエンジンに突っ込み回した。 数回まわすとエンジンがかかり皆笑顔でバンザイをして、故障車の連中もお礼を言って走り去って行った。・・・私は子供の頃、日本の戦後の混乱期に木炭車がよく故障し、運転手がエン故車の前でスターター棒のハンドルを回している情景を思い出した・・・。

       

 いよいよアルタイの案内ゲートをくぐり、遠くに街並みが見えて来た。 やれやれと一息ついたときにジープのエンジンが異常音を出してピタッと止まった。 バヤーフさんが「あれー、ガス欠だ。まだガスリンスタンドまで相当あるよなー。皆降りてガスリンスタンドまで車を押そう」と叫んだ。
「如何にも、モンゴル的だ。グーリン村を出る時に如何して給油しなかったのだろうか」と、思いながら私も他の三人と一緒に車を押した。 500m位進みやっとガスリンスタンドにたどり着いた。 ・・・人生いろいろあっても、何とかなるものだ・・・と、給油しながら思う。 やっとホテルにチェックインしでシャワーを浴びながら、・・・やっぱり俺は日本人だな・・・。シャワーを浴びないと旅の疲れが取れた気分にならないなー・・・と、つくづく思い知る。

      

 夕食を一緒に取ることになり、ホテルから近い小さなレストランに出かけた。 ロシア製ジープを提供してくれたモンゴル人は、アルタイの町で保険の営業をやっているとのことで、日本の保険のシステムを聞かれ、国民皆保険制度等や民間の保険制度等を話した。 驚いたことにモンゴルは共産主義社会だったためか、医療費は安く住居のゲル(パオと同じ)等にも保険をかける制度あるとのことで、かなり福祉関係は行き届いていると思った。

      

3-3. 草原の中のダム建設を見に行こう

      

 翌日は、アルタイで過ごすことになったが、現在中国の支援で砂漠の中で水力発電用のダムを建設中なので見に行こうと、バヤーフさんが提案した。 モンゴル人の保険社員が、ロシア製ジープで迎えに来てくれて、草原を一時間程走るとダンプカーの往来が激しくなって来た。
 ダムの工事現場には飯場が立ち並んでおり、砕石機の音が鳴り響いている。 砕石された砂利はトンネル内をコンベヤーでダムの作業現場のコンクリートミキサーに運ばれている。 高台から眺めると広大な草原の中に一筋の水路がチョロチョロと流れている。

       

アルタイの草原を流れる川

      

 ダムが完成すると、この広大な草原が湖に変わるとのこと。 ダムの建設現場では、重機類が激しく動き回り作業員が生コンを流し込んでいる。 バヤーフさんの話では、・・・プロジェクトは「ウランボー計画」で、中国政府がODA資金を供与し、セメントや重機等も全て中国から持ち込み、作業員も中国から連れて来ていること。 ダム建設は厳寒の冬季でも昼夜の別なく続けられるので、マイナス30℃の中で働く作業員の状況を思いやると身ぶるいがした。 恐らくこの現場から作業員が逃避しても、周りはなにもない草原と砂漠で、行き倒れなってしまうだろう。・・・改めて、中国政府のODA戦略に驚異を感じた。

      

 ダムの完成に二年間かかり、水をため始めて満水になるのに三年かかるとのことで、将来ダムが完成したら見に来ようと誓いながら現場を後にした。
このダム工事ツアーを通して、中国やモンゴル政府のやることは如何にも大陸的で島国に育った日本人には、及びつかない感覚であることを思い知った。

       

アルタイのダム建設現場

       

 

 

回想録④

     

 

     

4.野生甘草を求めて僻地に行こう!

     

 新会社・エコプラントジャパン(株、EPJ社)を設立しても当面売上は全くなく、何か収入に繫がるビジネスを探す必要がある。 EPJ社はモンゴル産の薬草を日本で売ることを定款に掲げているので、先ずは販売ルートを開発しようと考えた。 薬草の顧客は漢方薬メーカーであり、販売ルートを開発するために行動を起こすことにした。
 先ず、その販売ルートとして漢方薬専門の大学の先生に会いに行くことにした。 富山大学のK教授は、漢方薬の大家でモンゴル薬草の研究のため、エコプラント社のグーリン農場も訪問されたことがあり、研究論文を発表されていた。
 電話でアポイントを取ると気さくに応じて頂き、富山まで会いに行くことにした。
富山大学は高台にあり、K先生は忙しい中で会って頂き、私の方からモンゴルのEP社との関係等について説明した。 また日本市場でモンゴル薬草の販売ルートを作りたいので、関係者を紹介してもらえないかお願いすると、すんなりと漢方薬メーカーに勤めている同級生のA氏を紹介して頂いた。

 さっそくA氏の勤務先の会社に電話して、モンゴルの薬草関係の話をして原料として検討してもらえないかお願いした。 A氏の回答は、自分は直接の担当でないので、相談して回答するとのことで、その回答を一日千秋の思いで待った。
意外に早くその日の午後にM氏から電話あり、詳しく話を聞きたいとの声が返って来て飛び上るほど喜んだ。
 当日資料を用意して、東京都内にある事務所を訪問しM氏に面会した。 他に薬草専門の担当者が二人出席して、モンゴルの薬草状況についていろいろ質問を受けた。 さっそくサンプルを入手して会社の研究所で評価したいとのことで、最初の会談としては首尾良く行ってほっとした。
その会社訪問からの帰り道、・・・いよいよ野生甘草を求めてモンゴルの僻地に自ら乗り込むか・・・と、胸の高鳴りを覚えた。

 モンゴルで野生の甘草が多く自生している地区は、バヤンホンゴル県であるとの情報に基づき、そのサンプル採取に出かけることにした。 事前にEP社と連絡をとり、2007年5月12日ウランバートルを訪問し、ツアーの準備のために食糧等を買い込んで、3日後の15日にバヤンホンゴルに向けて出発することにした。

 

甘草調査への出発

 

 甘草探索のツアーに参加するのは、私とリーダーのトムロ社長、通訳のボヤンバットさんと運転手さんの計4名である。 当日の朝九時頃、バヤーフさんとアマルさんに見送られ、レンターカーの三菱パジェロでホテルを出発した。 車はひたすらモンゴルの広大な大地を西に向かって走る。 途中までは、一年半前にハラホリンを見学した時に辿った同じ道を走り、見覚えのある景色が続く。
 途中の小さな村の食堂で昼食を済ませ4時間程走ると分かれ道になりハラホリンへの道と分かれ南方向の悪道を揺られながら進む。 二時間程するとアルバイヘルの町が見えて来た。 この町は半年前に飛行機でグーリン村を訪問した折に、途中で降りたところであるが、今回はここに立ち寄ることなく先を急いだ。
バヤンホンゴルまで車で3時間程なので、夜の8時頃までにはホテルに着くだろうとのことであった。 1時間程走り辺りは夕暮れが迫って来た時に、運転手が奇妙声を上げて急に車の速度を落とした。 しきりにハンドルを回しているが、何か空回りしている感じで、ついに車を止めた。

 ボヤンバットさんに何事が起ったのかと聞くと、パワーステアリングが故障してハンドルが空回りしているとのこと。 まっすぐな方向に車はゆっくり走りながら進むが、曲がり角になると車を止めて、ボヤンバットさんが降りてタイヤを靴で蹴飛ばして曲げてからゆっくりスタートさせる。 何時の間にあたりは真っ暗になり、車の照明だけを頼りに進む。道がカーブで坂道に差し掛かりので、みんな降りて車を押しながらよたよたと歩く。
ふと夜空を見上げると、満天の星が輝き降って来るように迫ってくる。 ・・・こんなに満天の星をみたのは、八代の田舎で仰ぎ見た以来だなー・・・と、子供の頃の記憶がよみがえる。 しかし、何時になったら目的地のバヤンホンゴルに着くのだろうかと不安が過る。

 闇夜の中を一時間程走ると、遠くに灯りが見えて来て、運転手がほっとした顔で声を上げた。 そこはガソリンスタンドで、車を止めて運転手が灯りの下にパワーステアリングの応急修理をする。 針金でハンドルと操作装置を縛り固定したとのことで、やっとハンドル操作が出来るようになった。 車はスタートしたが、スピードを出すと壊れる恐れがあるのでのろのろ走る。先ほどからトムロさんがしきりに携帯電話しており、やっと繫がって大声で何か叫んでいる。
 しばらく走ると対向車の灯りがみるみる迫って来て、我々の車の前で止まった。 トムロさんが車の故障したことを伝え、助人の車を呼んだのだ。 駆けつけてくれた村人はトムロさんの友人で、こんな遅い時間でも心配して車を飛ばして来たとのことで、モンゴル人の絆の強さを感じた。

 予定の時間を三時間も遅れて夜中の11時頃に、やっとバヤンホンゴルに着いた。 その地区で一番大きなホテルにチェックインしたが、ホテルのロビーで、若者達が酒を飲んで騒いでいる。 ボヤンバットさんが言うには、最近この近くで金鉱が見つかって、モンゴル中から若者が集まって来て、金鉱堀をやっていて一部がこのホテルに泊まっていて騒いでいるとのこと。 しかし、他に適当なホテルはないので、ここに泊まらざるを得ないとのことで、大部屋に四人一緒に泊まることになった。 その夜は、ホテル内が騒がしいのと雑魚寝と言うこともあり、寝苦しい一夜を過ごすことになった。

 翌日は、故障車のパジェロを修理する必要があることから、運転手は朝早くホテルから車で出て行った。 残った我々は、バヤンホンゴル県庁を表敬訪問することになり、朝食後に昨夜迎えに来たトムロさんの知人が、車で迎えに来て県庁に向かった。バヤンホンゴル県庁は、アルタイ県庁と似たりよったりの規模であったが、多くの人が待っており知事に面会するのに一時間程待たされた。最近、野生の甘草を収穫する時の環境問題が厳しくなっており、その状況を聞いた。 私の方から、甘草の調査のため日本からやって来た目的を話して知事の理解を求めたが、特に知事からコメントはなかった。
 私が帽子を無くしのたで買いたいと言うと、ザハと呼ばれている市場に連れて行ってくれた。 人がごったがえしに歩いていて、道の両側にコンテナー店が並んでおり、いろんなものを売っている。 その中で帽子専門の店があり、NY(ニュウ・ヨーク)のマークの付いたのを購入したが、全て中国製でとのことで、「モンゴルでもNY帽とは、これ如何に」とボヤンバットさんに駄洒落を言って笑わせた。

 レストランで昼食を取っていると、運転手が笑顔で入って来て、パジェロの修理が出来たと告げた。 予定通り次のバーツァガーン村に出発するとのことで、私もほっとして車に乗り込んだ。 昨夜何事もなかったように、パジェロは草原を走り始めた。
昨夜ホテルの騒音のため寝不足の状態で、しばらく走るとすぐにウトウトまどろんでいると、トムロさんが前の席から振り返って「ニンジャだ、ニンジャだ」と叫び声を上げたので、ふっと目を覚まし指差す方向を見た。 ・・・何と大勢の黒装束の男達が、岩山に群がって鶴嘴を奮っている・・・。

「不法で金鉱石を探しているのですよ。黒装束なので日本の忍者に似せてモンゴルでもニンジャと呼んでいるのですよ」 「しかし、あんな方法で金が探せるのですか」
「それが、時々見つかるのですよ。 昨夜ホテル騒いでいたのはみんなニンジャです。 しかし、掘り出した鉱石を川の中で篩って選鉱したりするので、川や湖が汚れて大きな環境問題にもなっているのですよ」とのボヤンバットさんの説明に、・・・人間の欲望は、如何しようもないな。
しかし、モンゴルの内陸で湖が埋まってしまうような深刻な環境問題が起こっているのだ・・・と、改めて思い知らされた。

 車の揺れは一層大きくなり、草原に残る轍を頼りに二時間程走ると小さな集落が見えて来た。 目的地のバーツァガーン村で、ホテルや旅館は無いので村役場に泊まるとのことである。 その役場は、村の広場の一角にあり、二階が事務所で一階の二部屋に宿泊することになった。
勿論レストランや食堂もないので、持参した食料を料理して夕食を取る。 モンゴル人は、自分で食事を作ることは手慣れていて、手持ちのバーナーでチャーハンを作ってくれて、私に取ってごちそうとなった。 食事が終わるとすることもないので寝ることになり、二人ずつ分かれ、私はボヤンバットさんと同室に寝ることにした。 部屋には小さなベッドが二台あり昨夜のホテルでの雑魚寝より、快適に寝ることが出来た。
しかし、驚いたのは真夜中ガタガタと音がして部屋のドアーがぱっと開いて、二人の男が入って来たことである。 何事かと飛び起きて対応すると、別の部屋に泊まっているトムロさんに面会に来たとのことで、直ぐに出て行って隣の部屋で話し込んでいる様子だった。
翌朝、何で二人の男が真夜中に飛び込んで来たのか聞くと、この地区で甘草の栽培をしている競合会社の人達で、トムロさんがこの村に来たと聞きつけてやって来たとのこと。
いわば敵会社の社員が、EP社長の動向を偵察に来たとのことである。 それにしても、真夜中にやって来たのには驚かされた。

 朝食後に車で出発したが、先ず村長の家を訪問し挨拶をして、現地で甘草の採集を取り仕切っているダグワさんに会うために彼のゲルへの道順を聞いた。 そこで分かったことは、遊牧民は移動するのでその方面にいるであろうとの話は聞けても詳細な場所は分からないので、後はその付近に行って探すしかないとのこと。
 とにかくダグワさんに会えるか如何か分からないが、村長が紙に書いてくれが大まかな道順を頼りに出発した。 景色は草原から岩の台地となり車は激しくゆれながら砂利道を進んでゆく。 一時間程走っても周辺は灌木や雑草が生えており、目的の甘草は見当たらない。
 途中でゲルの住民を見つけてダグワさんの居場所を聞くと、道順を指差しながら説明してくれた。 三十分も走ると地形は砂地になり、周りを見回すと冬場に枯れた甘草の芽が出ている。 さらに進むと遠方にゲルが見えて来て、その前にロバが繫がれている。

 ドアーをノックして声をかけると、ゲルの中から真っ黒に日焼けした仙人みたいな人が現れ探しているダグワさんであることが分かり、「やっと辿りついたか」とホットした。
 さっそくダグワさんが、庭先の甘草が一面生育する場所に連れて行ってくれて、サンプルを採取することにした。 まだ季節が早いので、地上部は枯れており少し出ている芽を探し、その地下部を1メートル位掘って行くと甘草の根が網目のように張っている。 その地下茎を全て堀出すには、相当深く広く掘らなければならない、・・・それを見て、最初にこんな根っこを掘って、かぶりつき甘い成分が含まれていることを発見した奴はたいしたものだ・・・と、感心した。
 ダグワさん説明では、この一帯は野生甘草が一面自生していて、夏には地上部の葉っぱが生い茂るとのことである。 サンプルの甘草根を十キロ位掘り出して袋に詰めて、ダグワさんのゲルに戻って来て昼食を一緒に取ることにした。 丁度その時、ダグワさんの息子夫婦が赤ちゃんを抱いてやってきた。 赤ちゃんは一才になったばかりの女の子で、微笑みを浮かべて顔を見て、つい私は自分自身の一才の孫(男の子)に思いを重ねて、その笑顔に見入った。
 記念に撮ったのが次の写真で、モンゴルの家族の暖かさが伝わって来た。 息子さん夫婦は、近くのゲルに住んでいて時々帰って来るとのことであるが、夏になると家畜の草を求めて遠くにゲルを移すとのことである。

 

ダクワさんの家族との記念写真

 

 食事を済ませるとダグワさんの家族に別れを告げて、次のボグド町に向けて出発した。 その日の夕方までにボグド町に着かなければ、途中に宿泊するような所はないので車を飛ばした。 草原の道は途中で幾重にも枝分かれしており、その度に運転手とトムロさんが議論しながら道を選んで進む。 道すがら家畜の群れの中で牧童を見つけると車を近づけ声をかけボグドへの道が間違っていないか確認する。
時々方向が間違っていて急にハンドルを切って道なき道を走ることもあった。少し小高い丘の上にオートバイに乗った若者が登って行き頂上で止まり、双眼鏡を取り出して覗いている。 ボヤンバットさんに何をやっているのか聞くと、・・・羊が迷って何処かに行ってしまったので牧童が探している・・・とのことである。 さらに解説があり、モンゴル牧童は目が良くて裸子視力で1キロメーター先の羊が自分のものか識別出来るとのことであった。

 三時間程走ると西の空が黄色く染まり頃となって、丘の上にボグド町が見えて来た。 車は川沿いの道に差し掛かり、水がちょろちょろとしか流れていないので聞くと、ニンジャの所為だと言う。上流で砂金採りをやっていて川で鉱石を篩っているので土砂が流れを塞ぎ水が下流までこないとのことであった。
ボグド町に入ると通りに人が多く出ており、何となく騒がしい感じである。町の公民館の前を通ると広場にトヨタ・ランドクルーザーが二台停まっている。
話によると、その日ウランバートルから政府官僚が視察に来ていて、公民館で集会が行なわれているとのことである。 ・・・モンゴルの田舎でも、偉い人物がやって来ると大騒ぎするのは何処も一緒だな・・・と、改めて思い知る。

 ボグドのホテルはイタリアの支援で出来たとのことであり、意外にスマートな作りであった。 しかし、良い部屋は来場した政府官僚が泊まるとのことで、並みのクラスの部屋しか空いていなかった。 問題なのはトイレで、部屋の中にはなくホテルの敷地の隅の小屋にある堀穴式のもので、わざわざ外に出て用を足すことになる。
このホテルには数匹の犬が飼われていて、私が犬好きであることが分かるのかトイレに行く時も犬がついて来て困った。 南向きの日当たりの良い床下に子犬が産まれていたので声をかけるとヨチヨチと駆け寄ってきた。 モンゴル犬は色が真っ黒で毛がふさふさしていて目がくるくるしていてとても愛くるしい。
子犬を抱き上げて頭を撫でるとクンクンと鳴いた。 つい20年前にワン太と云う犬を飼っていて子犬頃良く抱いて散歩に連れて行ったことを思いだした。

 その日の夕食はホテルが用意してくれるとのことで、離れの食堂に行くと大きな鍋に羊肉とうどんを入れて煮込んだものが出された。 しかし、車で長時間揺られて腹がすいている身には、美味しく食べられた。 食事が済むと長距離ドライブ疲れがドット出て来て、直ぐにベッドで休むことにした。
 翌朝は快晴で甘草が自生している所を探索し、サンプリングするためにホテルを出発した。 現地のガイドはホテルのオーナーが務め、車で30分も走ると砂地が続き、甘草の芽が出ている場所に到達した。
 オーナーの話では、以前はその一帯は水が豊富で地表を流れていたが、今は河川の水量が減って地下に吸い込まれて地表には見えていないとのことである。
さらに驚いたことは1975年頃モンゴルがソビエト連邦の傘下の時代に、ロシアがボグド地区の980ヘクタールに重機を入れて、野生の甘草を掘り起し持ち去ったとのことで、その跡地にパイプを敷設して甘草の栽培をしたが、失敗したとの話であった。 失敗の原因はこの地区の水が硬水であったためカルシウムが析出し土壌が固まり上手くいかなかったとのこと。

 改めて共産主義時代に、こうした成算の見通しがないプロジェクトが堂々と実施されたことに信じられない感想を持った。 このボグドは、モンゴルで最も甘草が自生している地域であり、夏は一面甘草が生い茂っているとのことであるが、5月の時期はまだ砂地から芽が出た程度であった。
その芽が生えている所を目当てに2箇所で、2メートル四方を掘り起し甘草根のサンプリングを実施した。 2か所目でサンプリングしていると、風が強くなり砂が舞い上がって視界も悪くなったので、早めに切り上げることにした。 体は汗と埃にまみれざらざらになり、シャワーを浴びたい感じだが、ホテルにはシャワーがないとのこと。 帰り道にホテルの近くを流れている小さな川で体を洗うことにした。 皆でパンツ一丁になって川に入って体を洗った。
私は中学時代に球磨川まで馬の草を刈りに行った時に川の中で水浴したことを思いだしながら、ひんやりとした感触に自然の中で何か解放された気分になった。

 体を洗って気分が爽快になった所で、川渕の岩陰にシートを敷いて食事をすることにした。 食事を始めると、近くで遊んでいた子供達が物珍しそうに集まって来た。遊牧民の習慣だと食事の時に集まって来た人には施しを与えるとのことで、子供達にビスケットやトーストを分け与え一緒に食べることになった。
モンゴルの子供達は、日焼けしていて目が澄んでクリクリとしていて、純朴な感じである。 食事が終わると子供達はパーと散って行き、鬼ごっこや縄跳びなどして遊び始めた。

 午後は、ボグド町役所に行って副町長のドラムドルジェさんに挨拶した。 ボグドは大分市と姉妹都市を結んでおり、副町長も二度程大分を訪問したことがあるとこと。 甘草の自生状況を聞くと、この地区の甘草は近くのオログ湖が干上がってしまったため危機的な状況で保護して行く必要があると説明を受けた。
改めて、温暖化による湖の砂漠化が深刻になっていることを知った。 甘草を輸出する場合は、その地域の行政の認可を取る必要があり、私のボグド訪問の目的を副町長に良く説明し協力を求めた。

 町役場からホテルに帰る途中で、川縁の道を通ると夕暮れの中で大勢の子供が遊んでいて、モンゴルでは子供の頃から外で遊ぶことが好きなのだと実感した。 ホテルに帰ると我々のための食事として羊を一匹屠るので見に行かないかと、ボヤンバットさんが言う。 私は子供のころから動物を殺すのを見ることに嫌悪感をもっているので断った。 その日の夕食案の定羊肉とご飯の炒めものが出て、羊を悼みながら食べることになった。

前日の甘草のサンプリング作業で疲れぐっすり休むことが出来て、気分良く目を覚ました。 今日はいよいよウランバートルに帰れるのかと思うと、わくわくして早めに目が覚めた。 帰路の長い距離を走ることになるので、朝食を終えると直ぐホテルを出発した。
 車はアルバイヘルを目指して草原をひたすら走る。 二時間程走るとバヤンテーグと言う小さな町に到着した。 この町は丘の上にあり広場からいろんな方向に道が延びている。
トムロさんが、住民に道を聞きその町に立ち寄ることなく先を急ぐことになった。 丘の上から道を下り、どんどん走って行くと幾重にも道が分かれていてどの道を行けば良いか分からなくなった。 誰も聞く人がいないので、「エーヤー」と言う感じで、車を飛ばすと何か丘の周りをグルット回っている感じである。
 三十分程走ると上り坂になり、登りきると町が現れた。 「何か見慣れた景色だな」と思っていると、ボヤンバットさんが「なんだー同じ町だ。 グルット回って元に戻って来ただけなのだ」と叫んだ。 またバヤンテーグの町に帰って来たのだ。
トムロさんもがっかりして、今度はそこのレストランに入って行き、詳細にアルバイヘルへの道を聞いて、何かメモを取っていた。 とにかく先を急ぐ必要があり、先程とは別の坂道を下り、一時間程走ると幹線道路に出ることが出来た。 既に正午を過ぎており何処かで昼食することになり、道端にある大きなゲルの前で車を止めた。
 ゲルの中に入ると真ん中にストーブがあり、薪を焚いて老婆が大きな鍋をかき混ぜている。 そのゲルはドライブインであるが客は我々だけで、メニューも肉うどんだけとのこと。 老婆は大鍋にうどんと羊肉を入れてかき混ぜ、お椀によそおってくれた。味は塩味だけでうどんも伸びていて、決して美味しいとは言えなかったが、何とか空腹を満たすことが出来た。
 昼食を済ませてゲルの外へ出ると雪が降っていて、ウランバートルに早めにたどり着くために直ぐ出発した。 雪空の中景色もどんよりして、車の中ゆられていると眠くなりうとうとしながら帰った。 夕闇の中遠くにウランバートルの灯りが見えて来た時は、・・・やっと我が住まいに帰ってきたか・・・と感慨に浸った。こうして、第一回目の甘草探索の旅は無事に終了した。

 

一句

 

 

回想録⑤

     

 

     

5.新たな野生甘草を求めて西方への旅

     

 バヤンホンゴルで採取した甘草は漢方薬会社での分析結果は規格外となり、がっかりした。 分析結果をバヤーフさんに伝えると、モンゴル西方のホブドー県に自生している甘草ならば合格する可能性があると言う。 ・・・カール・ブッセの「山のあなた」の詩の世界ではないが、そこで山のあなたの幸を求めてまた旅することにした。
2008年9月1日にモンゴルを再訪問し、バヤーフさんと打合せを行い9月4日ウランバートルからホブドーに出発することにした。 フライトの出発は、11時30分とのことで、一時間前にバヤーフさんとウランバートル空港に行った。 既にカウンターの前には乗客が並んでいるが、しかし受け付けは始まっていない。
 しばらく並んで待っていると遅延(ディレイ)の表示が出て、乗客は何か言いながら散って行く。 バヤーフさんに如何してボクドー行が遅れるのかと聞くと、現地は風が強く収まるまで待つと言う。
「何時頃出発するのか」と聞くと、「全ては現地の風次第でその内に収まるだろう」と、平然として答える。 やはり遊牧民は時間には我々日本人とは違った感覚があり、特に気象条件によって予定を急遽変更することはすごく当然のことで、全く気に掛ける様子はない。

 「今日中にホブドーに行かないと現地での滞在期間が短くなり、甘草探索が出来なくなるのではないか」と、私が心配すると、「大丈夫だよ。今日中にホブドーに行けるよ。 まー、昼食でも取って待つことにしょう」と、バヤーフさんは鷹揚に構えている。
食事を済ましてカウンターに戻って来たが、まだフライト表示の情報はない。 それでスタッフに聞くと5時頃には出発出来そうだとの回答が返って来た。 乗客も段々待合室に集まってきてお互いに喋りながらじっと待っている。 バヤーフさんも隣に座った男としきりに話し込んでいて、聞くと相手はホブドーの知人で彼は国会議員への陳情のために出て来て、同じフライトで帰ると言う。

 飛行機は6時間遅れて5時過ぎにウランバートル空港を飛び立ち、西日を受けて大草原の上を飛行する。 眼下には緑の絨毯が続いていたが間もなく山岳地帯が見えて来た。 しかし日本の山と違って全く緑がなく赤茶けた禿山が続き、しばらくすると砂漠地帯が広がっている。 ・・・こんな所で飛行機が墜落したら何にも残らないで炎上するだろうな・・・との思いがふと頭をよぎる。
 3時間位のフライトでやっと湖が見えて来て目的地のホブドーに無事着陸した。 既に八時を過ぎて空港は夕やみに包まれており、二人のモンゴル人が迎えに来ていた。 その一人がオルギーさんで、ホブドーで印刷事業をやっていて、中々人なつこくてモンゴル語でどんどん私にも話しかけて来て、サッサと車に荷物を積み込んでホテルに向かう。 ホテルは町に三つしかないとのことで空港から一番近いところにチェックインした。
 既に9時を過ぎていたがオルギーさんが誘ってくれて近くの食堂に入ったが、遅い時間なのでメニューは一つしかないとのこと。 大皿に羊肉の炒めものとポテトフライの大盛りが出て来て、それを摘まんで何とか空腹を満たすことが出来た。
我々が泊まるホテルは部屋数が少なく、バヤーフさんと同じ部屋に泊まることになった。 未だ九月初旬であるが、モンゴルの夜はぐっと冷えてきて私は寝巻の上にセーターを羽織って寝たが、バヤーフさんはパンツ一丁で寝ているのにはビックリしてモンゴル人の耐寒度は違うのだと痛感した。

 翌日の朝、時間があるのでボブドーの町をぶらぶら歩きながら観光したが、街には信号が一つしかなく、歩いている人もまばらである。 しかし、ホブドーはモンゴル西部地区の行政や教育のセンターで師範大学が一つあるとのこと。
 10時頃オルギーさんが車で迎えに来て甘草探索に出かけることにした。 30分も走ると畑が広がっていて、少女が西瓜を道端でゴロゴロころがしているような感じで売っているには驚いた。 オルギーさんが車を止めて西瓜を三個買うと、少女はくりくりした瞳で笑顔をいっぱいの顔でこたえてくれた。 バヤーフさんの話では、ここホブドーは盆地で暖かく降水量も多少あるので、野菜や果物の栽培にも適しており西瓜やメロンが良く育つとのことである。 少女はまだ夏休みなので、こうして道端で商売をしているとのことで、モンゴルではハラホルリン等の観光地では、こうした子供がものを売っている姿を良く目にする。

 いよいよ車を甘草の自生地に乗り入れて、サンプルを採取することになった。 そこはホブド川と言う大きな河川が流れていて、その川縁は砂地で水が地下に浸み込み甘草の生育には適した地形になっている。 しかし、甘草の葉や茎は家畜に食べられていて地上部だけからは地下茎の生育状態は分からない。 二三個所を掘り起し、やっと甘草根の立派なものを見つけることが出来た。 その周辺を掘り始めたが2メーター程深く掘らないと甘草根をそっくり取り出すことが出来ない。 オルギーさんは人手が足りないので、車でホブドーの街にまで引き返し、二人の若者を連れて来た。
モンゴルの9月は昼近くなると急に気温が上がって来て暑いほどである。 さっそく二人の若者は上半身裸になり、甘草の生えている地面を掘り始め、瞬く間に2メーター程の深さの穴を掘ると、絡み合った甘草の根が出てきた。 甘草根は地下茎でつながっていて、そこから地上に茎が伸びている。 甘草根の一部に沿って掘って行くと大きな根が芋づる的に出てきた。 その根を引き上げると5㎏程度のサンプルを採取することが出来た。

 さらに、このミャンガット地区に甘草を栽培している畑があるとのことで、見に行くことにした。 栽培面積は25haとのことであるが、実際にはごく一部の畑に栽培されていた。 ここの畑は砂地で甘草の栽培に適して、灌漑も近くの河川から水路が引かれており、堰を切るとドーと水が畑に流れ込みようになっていて、極めて農産物の栽培に適した畑である。 甘草畑の隣は西瓜畑で、ラクビーボールのような大きさの西瓜がゴロゴロところがっている。
 皆で昼食をすることなり、西瓜畑の真ん中にシート敷いてトーストやハム等を取り出して食べていると、近くの西瓜畑で収穫していた男が西瓜を詰めた大きな麻袋を背負ってやって来た。 何か挨拶をすると腰を下ろしてトーストやハムをもらって食べ始めた。モンゴル人はこうして寄ってくる人は拒まず施しをすることが遊牧民としての慣習である。 男はその御礼に背負ってきた麻袋を提供すると言う。
西瓜が一杯詰まっており、先程道端で少女から買った西瓜も取り出して皆で食べることにした。 西瓜は小ぶりであるが真っ赤に熟れていて、日本のものより水っぽくなくてとっても甘い。
秋のやわらかな日差しを受けて、頬にさわやかな風を受けて広大な平野の中で西瓜を食べる。 ・・・ふと、子供の頃両親に連れられて八代の野上(現旭町)の畑にいって、筵を敷いて西瓜を食べてことを思い出す・・・。 私にとって子供時代を回想する最高の舞台となった。

 

     

甘草畑でモンゴル人と

     

 

     

     

 

 西瓜を食べ終わると、男は担いできた西瓜袋をバヤーフさんに渡して、すたすたと歩いて草原に消えていった。 甘草のサンプルの採取は出来たし西瓜を土産にもらって、ホブドーの街に引き上げることにした。 帰り道に街が一望出来る丘に登り見渡したが、一筋の道が東の方に伸びていてアルタイ、バヤンホンゴルを経由してウランバートルに続く道で、丁度ロシア製のバスが走っていて、二泊三日の長期旅行とのことである。
バヤーフさんの話だと、清時代はこのホブドーもその勢力下だったそうで、改めて中国の影響に驚かされた。

 

     

モンゴルの道祖神

     

 

     

     

 

 その日はホテルに引き上げて来て、採取した甘草根のサンプルをバヤーフさんと選別することにした。 選別作業が終わると一気に疲れが出てきて、夕食に出かけるのも億劫になってベッド寝転んでいると、オルギーさんが中年の女性と一緒に現れ弁当を差し入れてくれた。 中年の女性は彼の会社の部下で、私が日本人だと聞いて、ご飯とロールキャベツの弁当を作ってくれたて持って来たとのことて感激した。 味も中々のもので久しぶりに、美味しい食事に有りつくことが出来た。

 その夜は早めに寝ることにして床に就くと、間もなくバヤーブさんに電話がかかってきて出て行ったきり帰ってこない。 気になって中々寝付けなくで、待っていると一時間程してやっと帰って来た。
翌朝このことをバヤーフさんに聞くと、オルギーさんが呼び出して、・・・彼の会社に転職して一緒に仕事をやらないかと誘われた。 しかし、いまウランバートルでお母さんと一緒に暮らしているので、こんな田舎に引っ越すことは出来ないと断った・・・とのこと。 オルギーさんは、ビジネスマンとして中々のやり手で、彼の会社は積極的経営と活動で事業は発展しているとの話である。
 その日の午後のフライトでウランバートルに帰るので、朝チックアウトしていると、ロビーで大きなリックサックを背負った若い三人の女性に会った。 英語で話しかけると、ドイツ人、オーストラリア人とカナダ人でこれからモンゴルの山に登るとのことで、彼女達の逞しい足腰に見とれながら、無事の登山を祈って別れを告げた。

 帰路は採取した甘草のサンプルと麻袋一杯に詰め込んだ西瓜を土産として持ち帰ることなった。 フライトは順調で二時間程でウランバートルの上空に達したが、旋回して中々着陸しない。 何か機体に異常が発生したのではないかと心配したが、やっと三回旋回したところで着陸体制に入り、無事に地上に舞い降りることが出来た。 後で聞くと直前にモンゴルの大統領の飛行機が丁度着陸するところで、我々の飛行機が待たされることになったとのこと。 モンゴルの小さい空港ならでの状況であることを改めて知った。 空港にはアマルさんが迎えに来てくれていて、「飛行機が何時着陸するかヒヤヒヤした」と言うと、「モンゴルの飛行機は安全で、心配いらないですよ。 特に谷崎さんは運が強いから・・・」との答えが返ってきた。

 モンゴルの野生甘草の主要な自生地であり、バヤンホンゴルとホブドー県の調査によりその品質や自生量を把握することが出来た。 しかし、この調査が終了した頃からモンゴル政府により野生甘草の収穫が厳しく制限されることになった。 2009年6月にモンゴルを訪問しエコプラント社のトムローさんとバヤーフさんと打合せしたが、野生甘草を商業的に日本に輸出することは困難との話があった。
エコプラント社のトップに対して、「これでは、俺がモンゴルに甘草を求めて努力して来た5年間は無になったのか」と詰め寄ったが、法律的な問題は如何にもならないことを思い知った。

 しかし、世の中捨てる神あれば拾う神ありで、丁度並行して日本の漢方薬会社の研究所でエコプラント社のグーリン農場で栽培した痲黄の検討が進んでいて、・・・エコプラント社の痲黄は品質的に十分使用出来る・・・と判断されていた。 当時は、中国から痲黄が輸入されていて、価格的にモンゴル品は物流コストが高くなり、商業的に購入する話には進展しなかった。 ところがこの時点から中国の状況は大きく変化し、
 ① 中国貨幣の元が徐々に上がってきたこと
 ② 中国が資源を輸出することに厳しくなり、痲黄も品質の良い製品は国内で消費され輸出に回らなくなる事象が起こって来た
そこで、日本の漢方薬会社も痲黄をモンゴルに頼らざる得ない状況となり、急に商業的な輸入を進めることとなった。

     

 

 

回想録⑥

     

 

     

6.この際ロシアの薬草も探索しよう!

 2012年8月21日、16回目のモンゴル旅行に出発した。 今回の旅行の目的はモンゴルの天然甘草の輸入が政治的な決定により出来なくなったので、隣国のロシアからの甘草輸入の可能性を調査するために訪問することである。
ロシアの薬草会社はイルクーックにあり、今回その会社を訪問する。 ロシア訪問は日本から直接行く方法もあるが、モンゴルのウランバールに立ち寄り、そこを経由してイルクーックに入ることにした。

 モンゴルのジンギスハーン空港に夕方到着したが、何時ものようにバヤーフさんが出迎えに来てくれていた。 午後八時頃でまだ外は明るかったが、真夏の東京と比べると気温は少しひんやりとしていた。 ホテルに向かう道々で、バヤーフさんと近況について話し合ったが、彼は建設関係の新会社を弟さんと設立して取り組んでいて、今後は薬草事業に見込みがないのでエコプラント社の事業は断念することになり、大変なことになったと感じた。
 定宿のホテルにチェックインした後、近くの中華料理屋で食事しながらエコプラント社の経営方法について話し合った。 結論として、新任のN社長はエコプラント社の薬草事業に全く関心がなくグーリン農場の保守管理に金を出さない。 その反面、何か即金が入ってくる商売だけしか関心がないので、このままでは倒産するしかないとの見解で一致した。 しかし、現状ではN氏に代わる社長になる人材を見つけるは至難の業である。

 翌日(8月23日)は、ホテルの部屋にトムロさんとボヤンバットさんがやって来て、以下の意見交換をした。
  ①中国の薬草資源に関する最近の動向
  ②ロシアからの甘草の輸入
  ③エコプラント社の経営

ボヤンバットさんは、日系の鉱山関係の調査会社が潰れたので失業状態で、出来ればエコプラント社のプロジェクトを手伝いたいとのこと。 私にとってこの話は渡りに船であり、今後薬草ビジネスで協力してもらうことにした。 トムロさんに③エコプラント社に関して、「N新社長を交代させないと会社は滅茶苦茶になってしまう」と、早く人選を進めるように要請した。 トムロさんから、ゴビアルタイ県の出身で前大統領のエンクバイエル氏がエコプラント社のプロジェクトに関心を持っているとの話があったが、如何も進展しそうもない感じだった。

 3日目の8月23日は、いよいよウランバートル駅からロシアのイルクーックに向けて列車で出発する日である。 今回旅行会社の人に往復の航空券の購入を依頼したが、往路は満席で取ることが出来ず仕方なく列車で行き帰りは飛行機を利用することにした。 また、午前中はトムロさんとボヤンバットさんがホテルにやって来て、グーリン農場の麻黄の収穫等について具体的な話があり、今夏は6トンの収穫は可能だとのことだった。
 午後はロシア旅行の準備のため、両替所に行ってロシアの通貨(ルーブル)に換金して、バヤーフさんの職場の建設現場に行くことにした。 列車の切符はバヤーフさんが購入していたが、忙しいのでホテルまで届けられないので、私が職場まで出向くことにした。 ボヤンバットさんの運転でトムロさんと私を乗せて、郊外の新興住宅地に向かった。 ウランバートルは年々人が集中しており、既に人口が120万人を超えていて、郊外の至る所でクレーンが動いている。

 バヤーフさんの現場は農業大学の近くで、周辺はビルの建設ラッシュで慌ただしくて、電話で呼び出すとビルの上のほうから声がして階段を駆け下りてきた。 バヤーフさんから切符を受け取り、代金を支払って彼からロシアの会社にロシア語で電話をしてもらって、25日の朝イルクーック駅に迎えに来てくれるように依頼した。 私が今回のロシア訪問目的をバヤーフさんとトムロさんに話すと、ロシア人は商談にしぶといのでしっかり交渉するようにとアドバイスされた。 バヤーフさんは、ビル建設現場の監督とのことで夏場のこの時期は良いが、寒い冬場は吹きさらしで大変だと話していた。

 バヤーフさんと別れて、トムロさんとバヤンバットさんとレストランで夕食を取った後、ウランバートル駅に向かった。 今回初めて、モンゴルの国際列車で旅行をすることになる。 友人の元山さんが十年位前に同様な旅行したことがあるので、事前に電話して良く注意点を聞いていたが、しかし一人旅なので若干不安を感じていた。 トムロさんとバヤンバットさんは駅まで見送ってくれて、また車中で食べるカップラーメンやジュース等を買って差し入れて客室まで持ち込んでくれた。
列車は既にプラットホームに入っていて、イルクーックまで行く車両は一両だけで、あとの車両はモンゴル国境で切り離すとのこと。 客室は向い合せの四人部屋で、二段ベッドになっていて、幸いなことに私の席は下段であった。 客室は私が最初の乗客で、あとにどんな人達が入って来るか多少不安な気持ちで待っていると、ボヤンバットさんがモンゴル人の車掌に確認してくれて、当面私一人だけだとのことでホットするのと不安気な持ちなった。 モンゴルの夏季は八時頃でも明るく9時頃になるとやっと日が暮れる。
列車は駅の街灯が輝き始めた9時10分定刻通りウランバートル駅を出発した。

     

 

     

     

 

     

     

 

 程なくして二人の男が私の客室の通路にやって来て、「何処から来たのですか」と英語で質問して来た。 東京から来たと言うと、二人はにっこりして「日本人ですか、丁度よかった。私達も日本人ですよ。 実は私達の客室はオーストラリアからの来た女性客に占領されて、居づらいのでこの部屋を使わせてもらえないでしょうか」と、今度は日本語で話しかけて来た。 私は一人旅で聊か心細かったので、「あー、良いですよ」と応じることにした。 二人は安堵の声を上げて大きな荷物を担ぎ込み、向い合せの席に落ち着いた。 先ずお互いに簡単な自己紹介をした。 一人は五十代と思われS氏と名乗ったが、もう一人のM氏はその風貌からして欧米系白人である。 しかし、流暢な日本語を話すので驚いて質問すると、「自分は日本と米国の二重国籍だ」と言って詳しい話を始めた。
 ・・・M氏の父親は米国人で太平洋戦争前に宣教師として中国に渡るため、日本まで来た時に戦争が勃発して日本に抑留となってしまい、結局仙台に居を構えることになった。 宣教師の家庭に生まれたことで、四歳頃から英語、日本語と中国語の三ヶ国語を同時に話す教育を受けた。 また思春期や青年期にインドや中国に居住した経験もあり、流暢に三ヶ国語を話すことが出来るとのこと。

相棒のS氏の方もキリスト教関係の家庭に生まれ二人は幼馴染とのことで、英語で会話していた。 びっくりしたのはモンゴル人の女性の車掌が検札に来た時、S氏は流暢なモンゴル語で会話しており、聞くとモンゴルにも七年間住んだことがあり、布教活動だけでなく食品等のビジネスもやっていたとのこと。 二人は出身地の仙台で、子供達の英会話教室を開いて特殊な英会話の教材を使っており、その教育法がユニークで効果を上げていて評判になっている。 そこで、海外にも売り込みをすることになり、今回モンゴルで普及活動した後、ロシアのウランウデを目指すとのことである。

ロシアでの彼らの活動は、英会話の教材の普及を目的にウランウデを最初の拠点として三年間永住する予定である・・・。 恐らくこうした子供の教育を通して、キリスト教(プロテスタント)の布教を促進することが彼らの最終目的と思われるが、その宣教師としての崇高な精神力に感心した。 二人との会話の中で、私のロシア訪問の目的を聞かれ、薬草を求めてモンゴルで6年活動しているが、ロシアも同じ薬草があることが分かり、今回イルクーックの薬草関係の会社を訪問する旨話した。 少し辟易したのは、私の年が71歳と聞くと「もう貴方は天国に近づいた年になっているので、キリスト教を信じると天国に行けます」と布教されたことで、「私は、すでに仏教徒ですので大丈夫です」と言って手を合わせ「…南無阿弥陀仏…」と呟いた。

 夜も更けて来たので寝ることになったが、列車のゴトゴトと云う振動音に中々寝付けない。 狭いベッドの上で寝返りながら、上京して一年目の正月に夜行列車で揺られながら八代に帰郷した時のことを思い出しながら、ウトウトして浅い眠りについた。 何か人の声がして目を覚ますと、列車の窓は明るくなっていた。 客室のドアーを開けると隣の観光客が車窓の景色に歓声を上げている 。既にロシアとの国境で川が流れ多くの草木が茂っており、モンゴルの黄土の風景と全く違っている。 やがて列車はモンゴルの国境の町スフバートルで停車した。 そこで五時間程停車するとのことで、他の乗客と同様に列車を降りて駅の洗面所で顔を洗ったり用足しをしたりした。 客室に返ると、大きな荷物を担いで二人の女性が入ってきた。 いわゆるモンゴル人の担ぎ屋でロシアに安い中国製の衣類等を持ち込み商売するとのこと。

二人の女は客室に入ると上着を脱いで下着だけの姿になり、大きな荷物から次々に衣類を取り出して重ね着した。 同室のS氏の話だと、身の回りに着ける衣類は関税の対象にならないとのことで、担ぎ屋の知恵として一所懸命着込んで国境を越えるとのことである。 その内にモンゴルの検査員が客室に入って来てパスポートや持ち物を調べ始めた。 一通り手荷物検査が終わると車内の照明器具のカバーを外して何か隠していないか調べ始めたのには驚いた。 我々三人は特に問題はなかったが、後で入り込んできたモンゴル女性の二人は色々と質問を受けてやっとのことで解放された。 検査員が引き上げると二人は脂汗を拭きながら安堵の顔で我々に笑いかけた。

 スフバートル駅で我々が乗った一両だけを切り離し五時間程停車し昼頃になって列車はやっと出発した。 いよいよ国境を越えるとのことで、みんな車窓の風景に釘付になった。 隣の乗客はオーストラリアから来た観光客で、その中にロシア人の男性の通訳がいて彼と仲良くなり、色々英語で案内してくれた。 彼との会話の中で、本人はギリシャ系ロシア人で同じ経歴の女性と婚約していて、近々結婚式を挙げるとの話をしたので、ジョーク交じりで「結婚式をギリシャに行って挙げたら貧窮したギリシャ経済を助けるよ」と話すと、彼は笑いながら「親戚も今はイルクーック地区に住んでいるのでギリシャ行くまでもないので残念だ」との答えが返ってきた。
ロシアとモンゴルの国境は、大きなセレンゲ川で分けられており、川の両岸には高さ四メートル位の鉄製のフェンスで仕切られている。 また両岸に高い鉄塔が建っていてその上から小銃を持った兵士が川面を監視していた。 日本にいると陸地の国境はないので感じないが、改めてユーラシア大陸の国境警備の厳しさを思い知った。

     

 

     

     

 

 国境を超えるとロシアの最初の町ナウシキで、そこで停車しロシアの検査員が乗り込んで来て、ハスポートとビザの提示を求められた。 驚いたことに麻薬犬が一緒に乗り込んで来て荷物を嗅ぎ回った。 特に我々の客室は問題ないとのことで、担ぎ屋の二人のモンゴル女性は着込んだ衣類を急いで脱いで大きなバッグに詰めて、いそいそと列車を降りて行った。 列車はナウシキでまた五時間程停車するとのことで、駅を出て一人で町を散策した。 すると駅前の広場に先程別れた二人のモンゴル女性が大きな荷物を抱え、誰かを待つように素振りで座り込んでいて、私を見つけて笑いながら手を振った。 その表情に無事に国境を超えられた安堵の表情が溢れていた。 駅前から少し歩いた所に店屋が並んでおり食料品や衣料品等を売っていて、列車から降りて来た観光客がショッピングしていた。 品物としては殆ど中国品が出回っていて、モンゴルの担ぎ屋の影響であると思われた。

 ナウシキ駅で車両を連結して、夕方に列車はやっと出発した。 車窓からは農家が点在し牧草地が広がっている風景が続き、モンゴルに比べて遥かに緑が豊かである。 夕闇が迫って車窓が暗くなると、二人の同室者はベッドに寝転んでひたすら聖書を読んでいる。 やはりこの人達は日常生活の中に聖書が中心になっているのだと感心した。 私もベッドで寝そべりながらNHKの投稿小説を読みながら、次回投稿する小説の内容の構想をいろいろ考えたりした。 少し居眠りしているとガサガサと音がするので時計を見ると11時で、対席の二人が荷造りをしていて、もう直ぐウランウデに着くとのこと。 車窓をみると明るい光に浮かび上がった町並みが目に入って来た。 二人は私に別れを告げて、いよいよ目的地に来たかと云うような緊張した表情をして列車を降りて行った。

 列車はウランウデ駅を出発し、部屋は私一人になり旅疲れもあり急に深い眠りについた。 朝四時頃に尿意を催してトイレに行くとロックされていて入れない。 ノックすると中年の女性が出て来て、「吐いてトイレを汚したので掃除している。 急ぐなら隣の客車のトイレを使って下さい」と英語で言う。 隣の客車に行くとロシア人で混雑していてトイレはついていない。 どうも我々の客車だけが国際客車でトイレがついており、後は途中で連結したロシアの普通客車だと思われる。 少し待ってからからトイレに行ってやっと用を足すことが出来て、一安心して再度眠りについた。

 列車は時間通りイルクーックに朝八時に着き、人の流れに沿ってプラットホームを大きな手荷物を持って歩いていると対面から来た二人の大男に「谷﨑さんですか」と日本語で呼び止められた。 事前にモンゴルのバヤーフさんを通して連絡しておいたので、ロシア人のP社長と通訳が一緒に迎えに来てくれていた。 イルクーック駅は丁度通勤時間で多くの乗客が白い息を吐き行き交っており、駅前の駐車場にP社長の車・プジョウがパークしていて、ホテルまで連れて行ってくれた。 途中で、何故私がイルクーックまでやって来たのか、またモンゴルでどんな活動をしているのか等について、日本語の通訳を通してP社長に話をした。
三十分程でビジネスセンターホテルに着き、先着の日本からのミッションと連絡を取った。 私が夜行列車でウランバートルから来たので午前中は休んで、正午ミッションの人達と合流するとのことになった。

 ホテルのレストランで昼食取りながらミッションの人達と打合せして待っていると、P社長と通訳が車で迎えに来てH会社の事務所に向かった。 事務所は住宅地の中にあり二階が住居で、その日は土曜日で従業員はおらず、若くてロシア美人の奥様が出迎えてくれた。
 午後はビジネスについて話合いそれが終わると、P氏がバイカル湖に案内してくれるとのことで、さっそく二台の車に分乗し出発した。 私は通訳のU氏の車に分乗したが、彼は日本の富山、鹿児島や大阪に語学留学したことがあり、時々関西弁をしゃべり、日本企業のコンサルタントもしているとのことで、日本語も中々流暢である。
二時間程のドライブでバイカル湖に着いた。 既に午後八時を回っているが、まだ太陽は西空に輝いてる。

 土曜日の夜ということもあり、道路は車で込み合い大勢の観光客で賑わっていた。 湖畔に車を止めて水辺を歩いたが、世界で一番澄んだ湖の名のごとく青々とした水面が広がっていて、この海のような広大な湖を渡ってくる風は夏でも冷たく頬をさす感じである。 直ぐに湖畔を引き上げ土産店が並んでいる通りを散策した。 お店はロシアの代表的な人形であるマトリョーシカの他にバイカル湖で獲れる淡水魚の干物等を売っており結構賑わっている。 一通りお店を見て回った後、食事をすることになりレストランを探したが、何処も混んでいて空いた席がなく三軒程はしごをして、やっとベランダの席を見つけた。 しかし、日が暮れて来るとさらに風が冷たくなり、お店から毛布を借りてみんな体に巻いて食事した。 寒い中で食事をしながら、まだ日本は猛暑が続いていることだろうなとの思いが過った。

     

 

     

     

 

 翌日(8月26日)は日曜日であったが、午前中はP社長と打合せし午後はイルクーックの郊外にある新しい工場を見学した。 工場は民家から離れた畜舎を買い上げたもので、改造中で11月頃までには生薬工場として改造するとのことであった。 その夜はフリーとなりミッションの人達とレストランに食事に行くことになった。 ホテルのウエイターに色々聞いてタクシーを呼んでもらいブルドックと言うレストランに直行した。 レストランは、ロシア風の豪華な雰囲気で席も空いて、可愛いロシア女性が案内してくれた。 しかし、料理を注文する段階になって、そのウエイターはあまり英語が話せないので、英語のメニューを持ってきてもらい指さしして何とか目的を達することが出来た。 若いウエイターは聞き取れないと、ニコッと笑って片言の英語で聞き返すのが何とも仕草が可愛いらしい。 食後にウエイターと一緒に写真に納まり、レストランを後にした。

 

     

     

 

翌日(8月27日)は、ミッションの人達は別の地域を訪問するとのことで、私は別れてホテルに残り再びモンゴルに帰ることにした。 ホテルに通訳のU氏が迎えに来てフライトまで時間があるので「木粉ペレット燃料等についてモンゴルへの販売の可能性」について話し合った。 モンゴルへの帰りはチケットが取れたので飛行機で帰ることにして、U氏にイルクーック国際空港まで送ってもらった。 空港はホテルから車で20分の所にあり、欧米の賑やかな空港のイメージと違って暗くて閑散としていた。 出発まで時間があるためか乗客は私一人であり、待合室で待つことにしたが、椅子がスチール製で座り心地が悪い。
日本から持って来た本を読みながら、時々立ち上がり腰を伸ばしたり歩き回ったりして時間を過ごした。 そのうちにモンゴル人と思しき乗客がボツボツと集まって来た。

 夜の八時になってやっとウランバートル行のチェックインが開始され、検問と手荷物検査を受けて出発ロビーで待つことになった。 この時間のフライトは私が乗るウランバートル便だけのようで、広々としたロビーで乗客は30人程度であった。 やがてリムジンが迎えに来て、飛行機まで案内し搭乗となった。 エアロモンゴリアはウランバートルを拠点として国内線が主体であるが、中国、ロシアとカザフスタンの三ヶ国に国際便を飛ばしている。 我々を乗せたプロペラ機は定刻通りにイルクーック空港を離陸し、順調に飛行しウランバートルに定刻通りに着陸した。往路は鉄道を使ったために36時間掛ったのに復路はたった2時間であり、次回は往復とも飛行機を利用すべきと、最速の移動手段の便利さを痛感した。 ウランバートル空港には、約束通りバヤーフさんが出迎えてくれた。

 

     

     

 

 翌8月28日からモンゴルの知人達と会って、バイオディーゼル、化粧品等について日本製品の輸入の可能性について話合った。 ボヤンバットさんとは化粧品の販売について提案したが、既に彼の兄さんが韓国品を輸入し販売しているとのことで、モンゴル市場にいろんな韓国品が既に浸透しているのを感じた。 翌日(8月29日)も、ボヤンバットさんがホテルにやって来て、ウランバートル市の冬場の大気汚染の問題を話し合った。 冬季になると暖房のため品質の悪い大量の石炭を焚くので、不完全燃焼の微粒子が飛散して大気汚染の原因になっているとのこと。 その解決方法として、彼は石炭から豆炭を造って燃焼効率を上げて、粉塵を下げる方法を提案したが、経済的な検討がさらに必要と感じた。

 8月30日は、バヤーフさんとトムロさんに会ってエコプラント社の経営について再度話し合った。 今の状態は誰も経営に責任を持つ人がおらず、このままで行くと会社は倒産するしかないので、早くT社長を交代させるように強く要請した。 しかし、今回も忙しいのを理由にT社長に面会することは出来す何も進展しなかった。

 9月1日の午後は、ボヤンバットさんがモンゴルのキノコ研究所に車で連れて行ってくれて、茸の専門家のブレンバートルさんと面会した。 日本の生薬メーカーから要請のある猪苓マイタケの栽培方法について話を聞いた。 この茸はモンゴルの北部に生育しているが、森林の中で菌体を見つけるのが難しく今夏は発見出来なかったが、また来夏に再度チャレンジするとのことであった。

 今回のモンゴル訪問では、エコプラント社の経営が上手く行っていないことが最大の懸念事項であり、私としては何とかとかしなといけないと思いながらも具体的な提案が出来ず、懸案を抱えたまま9月3日に帰国の途についた。

 

回想録⑦

     

 

     

7.モンゴル・ロシアに薬草を求めて

 2012年11月19日、17回目のモンゴル・2回目のロシア旅行に出発した。 目的は、ロシアのイルクーックにある薬草会社を訪問することで、前回のロシア訪問ではモンゴルのウランバールを経由し往路は鉄道を利用してイルクーック入りしたが、今回は往復とも空路を利用することにした。
モンゴルのジンギスハーン空港に夜中の10時頃到着したが、わざわざバヤーフさんが出迎えに来てくれていた。 空港を出ると外は雪が積もっていて、辺りはスモッグに包まれ冷たい外気が鼻を刺し、冬季のウランバートルの大気汚染が益々深刻になっているのを感じた。

 ホテルに向かう道中でバヤーフさんの近況を聞いたが、彼は建設関係の新会社で働いており業績は好調で忙しく、この寒さの中でもビルの突貫工事を続けており、年末までに外装工事を終えるため取り組んでいるとのことであった。 またエコプラント社の経営に関して、事前に私が社長になって立て直すことを電話して彼も同意していたので、エコプラント社の取締役会の開催予定等について話し合った。 ホテルに着いたのは夜の11時を過ぎており、遅いのでチェックインして直ぐ就眠することにした。

 翌日(11月20日)は、バヤーフさんとボヤンバットさんにホテルで会ってエコプラント社の経営について話合い、私が社長になって経理はボヤンバットさんが担当することを提案し、大筋でバヤーフさんの同意を取り付けることが出来た。
3日目(11月21日)は、バヤーフさん、トムロさんとボヤンバットさんにフラワーホテルに来てもらい昼食を取りながら話し合い、結論として① 私がエコプラント社の社長に就任する件は、ロシアから帰国後株主のT氏とE氏も入れて正式に株主会議を開催して決議する。 ② 経理についてはボヤンバットさんが担当しバヤーフさんから引き継ぐ。 ③ グリーンの農場についてスプリンクラーを使用した新しい灌漑を実施する。 ④ 農場労働者として北朝鮮人を採用したら如何かとのトムロさんから提案があり検討する。 また、⑤ 私から通訳として日本語か英語が出来る若手のモンゴル人を採用したいと提案した。

4日目(11月29日)の正午頃に、ボヤンバットとトムロさんが茸の専門家を伴ってホテルやって来たので、近くの喫茶店で話し合うことにした。 その茸の専門家は医療関係の仕事をしているとのことで、白髪の紳士で信頼が出来る人物であるとの印象を受けた。 彼は専用で茸栽培研究室を持っていて、猪苓マイタケについても菌体が入手出来ればモンゴルで栽培出来るとのことであった。 茸の菌体はロシアか中国からしか入手出来ないので、今後情報交換しながら進めることにした。 もし、モンゴルで猪苓マイタケの栽培が出来れば画期的で、成功すれば日本に輸出することも可能なので市場調査して欲しいとの話があった。

5日目(11月23日)は、ウランバートルからロシアのイルクーックに向けて出発する日で、前回は片道列車で36時間掛り大変な目にあったので、今回はフライトを利用することにして、早めにモンゴルでのチケット購入を依頼し往復の航空券を入手することが出来た。
 バヤーフさんに車で空港まで送ってもらって、国際線出発ロビーで待っていると、隣に座っていたアジア系の中年の男性が英語で話しかけてきた。 彼は韓国人で建設関係の会社を経営しており、事業拡大のために時々モンゴルを訪問していて、今回は知人を頼ってイルクーックを初めて訪問するとのことである。 私もモンゴルやロシアでの活動を紹介して、また最近の日韓関係についても話し合ったが、竹島を巡る政治問題につい触れても彼は嫌な顔しないで話会うことが出来て好印象を持った。

 飛行機は出発が遅れるとのアナウンスに心配して待ったが、何とか1時間程遅れて雪景色のウランバートル空港を飛び立った。 乗客は国際色豊かで、ロシア語やモンゴル語の他に多くの中国語が飛び交っていて、改めて中国人の外国進出の積極さを思い知った。 フライト中は少し揺れたが、2時間程で夜の11時頃にイルクーック空港に着いた。 空港は欧米と違い照明が少なくて薄暗い感じで、驚いたことは入国の手荷物の検査が厳しく、麻薬検査犬が1つずつの荷物を嗅ぎ分け、やっと入国することが出来た。 空港には多くの人が出迎えに来ていたが、私を迎えるはずのP氏の姿が見えず戸惑った。 10分程待っているとP氏が息を弾ませて若くて美人の女性を伴っていてやって来た。
 彼女は英語の通訳でマリアと名乗り出迎えが遅れたことを詫びた。 直ぐに車でホテルに向かったが、マリアさんの英語は流暢で分かり易く、アメリカに留学して英語を習ったのかと聞くと、イルクーックの大学で勉強したとのことで、その語学能力に驚いた。
その日は到着が遅れ真夜中の時間で、ホテルに直行してチェックイン後、直ぐに就眠することにした。

 

     

     

 

 

     

     

 

 翌日(11月24日)は、朝11時にホテルにP氏と通訳のマリアさんが迎えに来た。 その日は霧が垂れ込め朝の11時でもまだ薄暗い感じで、気温は零下15度位でホテルを出て車に乗る間でも息が凍りつくような寒さである。 P氏の事務所ではロシアの薬草状況だけではなく、モンゴルの薬草関係やエコプラント社の事業内容等について話合った。
その後、郊外にある生薬製造工場を見学したが、前回8月末に工場を見学した時は、二棟とも以前の畜舎のままの状態であったが、今回一棟は改装され床と壁の塗装工事もされていた。 既に暖房のスチームが通っていたが、機械類はまだ屋外に野積みの状態で放置されていた。 私が「原料の選別作業に今回立ち会うことが出来ないのか」と質問すると、今回は手作業でやって取り敢えずサンプルを試作するとのことであった。 しかし、本来なら装置での作業を指導するのが訪問の目的であるので、作業が大幅に遅れていることに不満を漏らしたが、直ぐに機械の取り付けが出来るものでもないので、明日以降の予定については担当者を含めて作業内容を話合うことにした。
 その日の打合せは終わり、夕食をすることになり中華レストランに連れて行ってもらった。そこには韓国料理のメニュウもあったので、ビビンバを注文したが、何かベチャットした味でウランバートルの韓国料理店に比べて不味いものだった。

 11月25日の朝、11時頃にP氏と通訳のU氏がホテルに迎えに来てくれて、車で事務所に向かった。 外は雪がチラチラしてウランバードルより寒い感じである。 事務所で打合せしたが、殆ど装置の準備が出来ていないので、手作業でサンプルだけを試作することになり、必要な用具や機器を用意するようにP氏に要請し、ショッピングセンターで購入することになった。
車でショッピングセンターを案内してもらい見て回ったが日本の店に比べて品数が少なく目的のものは中々見つからなかった。 結局その朝はショッピングセンター回りに時間を費やしただけになった。
 昼食時になり前回食事したブリャード料理店に連れて行ってもらった。 ブリャード人はモンゴロイドでバイカル湖の周辺に多く住んでいるとのことで、モンゴル料理のボーズやホーショウを注文したが味も口に合うものだった。 昼食後は雪がチラチラ降り続いている中で郊外にある生薬工場に向かい、早速作業を開始するため機器を設置してもらったが、部品が揃わないのでその日は作業するまで至らなかった。 一通り打合せした後、再度部品買いにショッピングセンターを回ることになり、しかし適当なものは見つからなかった。

 ロシアでの4日目(11月26日)は、朝から再度ショッピングセンターを回って部品を探すことになった。 二軒目の店でやっと目的の部品を見つけ購入することが出来たので、それを持って工場に駆けつけ早速サンプルの試作テストを実施し、品質の良いものが得られることが分かりホットした。 少し作業したところで昼食の時間になり、車でイルクーックの町まで戻りチェコ系のレストランで食事することになった。 出てきたメニューは肉料理が主体で、しかもその量の多さに驚いた。 ロシア人はその大きな肉の塊にかぶりつきペロッと平らげていたが、私は柔らかいところを少しかじるだけで昼食を済ました。 昼食後は、再び工場に戻り選別作業を続行したが、品質的には良好なものが得られたので、後はその作業を繰り返すことで量的に確保することになった。
 その夜に、私はウランバートルに帰ることになっているので、作業を7時頃で切り上げ、夕食をすることになり車で市内のレストランに向かった。 日が暮れると寒さが一層厳しくなり、道路の両側には降り積もった雪が凍っており、車の運転も一層難しくなっていた。 暫く走ったところで車は歩道に乗り上げバーンと言う音がして車体が沈んだ感じになった。 「どうもタイヤがパンクしたようだ」との通訳のU氏が叫んで、道路の端に車を止めて確認すると右前輪のタイヤが破損していた。
早速P氏が車体を持ち上げてスペアタイヤ―とジャッキーを取りだし、U氏が雪道に寝そべってジャッキーを車体の下に設置しようとしたが、車体の重量が重くジャッキーが潰れてしまった。 なんとU氏はズボンがズレ落ち素肌が露出し道路の雪が付着しており、マイナス10℃の中で平然と作業するロシア人の耐寒性に驚かされた。 寒中で奮闘しても自分達で直すことが出来ないので、携帯電話で修理屋を呼ぶことになった。 しかし、修理屋は中々やってこないので、私達は雪が降る中に震えながら待つしかなかった。 やっと30分位待って修理屋がやってきたが取り出したジャッキーが又も潰れてしまい役に立たない。 一方私のフライトの時間が迫って来ているので、タクシーを呼んでもらいU氏とイルクーック空港に向かった。

 既にウランバートル行きフライトのチェックインが始まっていて、何とか間に合うことが出来た。 広い待合室には十人程のモンゴル人が談笑しており、日本人と思われる二人の乗客がいたので話しかけると、教会関係の仕事でイルクーックを訪問したとのこと。 モンゴルやロシアに布教活動する宗教関係者のモチベーションの高さを感じた。 また、往路のフライトで一緒だった韓国人の男性に再会して、お互いにイルクーックでの滞在について話し合った。 ウランバートル行のフライトは7割程度の乗客率で珍しいことに定刻通り出発した。
私は幸いなことにロシア系少女の隣の席で、少女は高校生と思われ色白で目がパッチリして可愛い顔をしていた。 早速英語で話しかけたが、残念ながら英語は通じず、どんな目的でウランバートルに行くのか聞くことが出来なかった。 彼女の仕草はとても可愛らしく、ボルーペンを貸してくれたので、お礼を言うと首をすくめたり、ウランバートル空港に飛行機が無事着陸すると笑顔で拍手したりして表情が豊かである。 既に11時を回っていたが、ウランバートル空港にバヤーフさんが車で迎えに来てくれいた。 ホテルへ行く道々エコプラント社の経営についてロシアのP氏が興味を持っていることなどバヤーフさんに話をした。

 翌日(11月27日)は、エコプラント社の取締役会を開催するので、PM5時半にバヤーブさんがホテルに迎えに来たが、車が使えないので歩いて行こうと言う。 その理由を聞くとウランバートル市内の車の混雑を緩和するための条例で1週間に1日は車番によって車が使えない規則とのこと。 既に日暮れ時でホテルから屋外に出るとスモッグが立ち込め刺激臭がして息苦しい感じである。 雪がチラチラ降るなか息を弾ませながら15分程歩いて、T氏とE氏の法律事務所まで出向いた。 既にトムロさんもその事務所来ていたが、肝心のT社長が不在である。 既に6時になったので取締役会を始めようと言っても社長が不在なので始まらない。
その間E氏がモンゴル人のマネジメントの難しさをゴジャゴジャと話したが、一時間経ってもまだT氏は現れない。 そこで私も痺れを切らして、「取締役会を開催しなければ俺は次の予定があるので帰るぞ」と啖呵を切って席を立ちトイレに行った。

 席に返って来るとT氏が不在でも取締役を開こうと話が纏まり、早速私を社長に押す動議が出され、出席者4人の全一致で可決した。 その時点で、私がエコプラント社に就任して経営に当たることになったが、実際の登記等については今回滞在期間が短いので、次回訪問の折に実施することになった。 その後、私はペンスキーホテルで次のモンゴル人と食事することになっていたので、バヤーフさんとタクシーを拾ってホテルに向かった。 バヤーフさんとはホテルで別れたが、エコプラント社の件で引き継ぎをする必要があり、ボヤンバットさんを含め三人で後日合うことにした。

 翌日(11月28日) の夕方、バヤーフ、トムロ、ボヤンバットの三人にアマルさんを加えてホテルの近くの中華料理屋で会食しながら懇談した。 私の方から、これからエコプラント社の経営を引き受けるので、改めて協力をお願いした。 また、最近のモンゴルの話題として、ウランバートルの冬季の大気汚染が年々深刻になり住民の健康にも影響しているが、良い解決方法がないとボヤンバットさんが嘆いた。これまで、(株)IS社の石炭の液化技術やバイオディ―ゼル等の技術を紹介したが、投資に多額の金がかかりモンゴルでは全く進んでいない。また以前に豆炭の技術導入を推進したいので、日本のメーカーに当たって欲しいとの話があったが、私が日本でH産業に当たって見たが関心を示さなかったとの話をした。

 11月29日の昼頃、ホテルの部屋で休んでいると、フロントに呼び出されアマル氏が来ていると言う。 ロビーに行くとアマル氏がEさんと言う中年の女性を伴っており、彼女はウランバートル市の保険局長をしており、私が持ち込んだ化粧品のリフレットに関心があるとのこと。 モンゴルの女性は日本の化粧品に関心があるが、モンゴルは日本より気象環境が厳しいので、何かモンゴルの女性の肌に有効な特殊成分を配合した化粧品が開発して売りたいとの提案があった。 その成分を送ってもらえば配合法を検討したいとのことである。

 11月29日の夜、翌日には日本に帰国するので、バヤーフさんとボヤンバットさんがホテルの部屋に来てくれて最後の打合せをした。 特にロシアのP氏がエコプラント社の経営に興味を持っていることについては、今後話を詰めて明確な意向を確認した上で、トムロさんにも話をすることにした。 その後、三人で夕食を一緒にしたが、バヤーブさんは建設業に、ボヤンバットさんは鉱山省の公務員として夫々の道を進むが、今後もエコプラント社の経営に関して私に協力することを約束してくれた。

 今回のモンゴル・ロシア旅行は、エコプラント社の経営の転換とロシア薬草の輸入に関して成果が得られ、今後ロシア薬草ビジネスで得られた収益を基に、モンゴルの薬草事業に投資し新たな展開を計ることに夢を馳せながら11月30日帰国の途についた。


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